バイオリニスト堀米ゆず子 バッハ演奏、円熟の域に
ベルギー在住の世界的バイオリニスト堀米ゆず子さんがバッハの作品で円熟した演奏を聴かせている。3月には東京で「ブランデンブルク協奏曲」全曲公演を率いた。エリザベート王妃国際音楽コンクールで日本人初の優勝を果たして約38年。ライフワークともいえるバッハ演奏の核心を聞いた。
3月24日、堀米さんを中心に集った総勢25人の演奏家による合奏協奏曲集「ブランデンブルク協奏曲(第1~6番)全曲演奏会」がヤマハホール(東京・銀座)で開かれた。オーボエの古部賢一さんやバイオリンの米元響子さん、チェロの安田謙一郎さん、チェンバロの曽根麻矢子さんら全員がソリストとしても注目される第一線のアーティストぞろいだ。
■個性の強いソリストたちが堀米さんのもとに結集
「至福のときを過ごしている」と堀米さんはリハーサルの際に言っていた。「皆さんが異なる個性を持っている。共演できてうれしい」。この25人が全6作品ごとに編成を増減・変化させ、超絶技巧を交えながら様々な表情と色合いの合奏を展開していった。
しかもこの日は記念日。ドイツ・バロック期最大の作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750年)が神聖ローマ帝国(現ドイツ)のブランデンブルク・シュヴェート辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに「ブランデンブルク協奏曲」を献呈したのが1721年の同じ3月24日だったのだ。今年はバッハ生誕333周年なのだが、満員の客席に向かって「このホールの座席数も333席」と語り、偶然の数字の一致に感慨深い様子だった。本公演の3日前、バッハの誕生日である3月21日に行われたリハーサルの際に堀米さんに話を聞いた。
「ブランデンブルク協奏曲」はバッハが独中北部アンハルト・ケーテン侯国の宮廷楽長だった30代半ばに作曲された。「バッハが最も幸せだった頃の作品。宝石箱をひっくり返したように、様々なメロディーやフーガ、緩徐楽章の美しさなどが詰まっている。6つの作品どれをとっても遜色ない。この1週間はずっとこの宝庫に浸りきっている」と今回のメンバーたちとリハーサルを重ねる日々の楽しさを語る。
ここ数年は特にバッハの作品にひかれている様子だ。2016年にはCD「バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲」(オクタヴィアレコード)を出した。「ずっと弾いてきた『無伴奏ソナタとパルティータ』のちょうど後に書かれたのが『ブランデンブルク協奏曲』」と説明し、2作品のつながりから今回の取り組みとなった。かたやバイオリン1本による無伴奏曲、もう一方は数人から20人ほどによる合奏曲。編成は異なれど、「共通するものがある」と堀米さんは語り、ある一貫したアプローチを取る。
■バッハの合奏曲で美しいメロディーを歌い上げる
「バッハの音楽はメロディーだと思っている。それが基本だ」と堀米さんは主張する。バッハといえば多声音楽の最たるもの。合奏曲や鍵盤音楽では対位法を駆使し、複数の旋律が様々な組み合わせとリズムのかみ合い方で同時進行していく。だからこそ、ソリストが「バッハはメロディー」と言い切るのはある意味で大胆といえる。しかし堀米さんはバッハの音楽を個別の旋律も多声による全体もメロディーと捉えて愛しているようだ。
3月24日の演奏会では6作品の曲順も堀米さんが決めて進んでいった。1曲目「第1番ヘ長調BWV1046」では、冒頭で古部氏のオーボエの音色が合奏全体をフワッと浮き上げるような、雲の上で奏でられる優雅な音楽へと仕立てた。柔らかくもきらびやかなオーボエとホルンの響きを交えながら、流れのいい音楽が進行していく。
「横の線と縦の線をうまくかみ合わせるのが難しい。(多声部の)組み合わせが複雑で、お互いがすべてを含んで演奏しなければいけないが、かといって縦ばかりを合わせるわけにもいかない。どこに向かうからこう弾いてほしい、といった調整が必要になる」と堀米さんは語る。
「第1番」の第4楽章で堀米さんのアプローチの方法がよく出ていると思った箇所がある。彼女のバイオリンの独奏パートがやや速い感じで出てきた部分だ。「バッハで重要なのはカンタービレ(歌うように美しく)。バロックだから歌ってはいけないということはない。すごく美しいメロディーは歌わなければいけない」。そう堀米さんが言うように、彼女は思い入れのある箇所で歌い上げていた。
彼女が愛用するのはイタリアのクレモナで1741年に製造された「グァルネリ」。2012年に独フランクフルト国際空港で税関当局に差し押さえられる事件にも巻き込まれた名器だ。これが明快な響きでよく歌い、全体にインテンポ(正確な拍子)で進む合奏の流れの中で、独特のルバート(速度の加減)を印象付けていた。
堀米さんが特に気合を入れていたと思われるのが弦楽合奏とチェンバロによる「第3番ト長調BWV1048」だ。弦楽奏者10人がずらりと並び、爽快な多声音楽を延々と繰り広げる。特に第3楽章ではチェンバロの曽根さん、コントラバスの池松宏さんら通奏低音が安定したリズムを刻み、その上にそれぞれ3人ずつのバイオリン、ビオラ、チェロの弦楽奏者が非常に速いフレーズを次々に披露していく。堀米さんと米元さん、青木尚佳さんのバイオリン3人によるスリリングな高速の掛け合いは圧巻だ。
「ものすごい説得力を持つ音楽。どこに山を持ってくるかで表情も変わってくる」。堀米さんは「第3番」の第3楽章についてこう語る。ビオラの柳瀬省太さん、チェロの安田さんら中低音域の弦楽器もバイオリンと同様に速いフレーズを弾き続けるのが印象深い。「第1楽章はリズムのかみ合わせをしっかり決めるところで決まらないといけない。バッハはリズムとカンタービレがポイント」と演奏の秘訣を説明する。
■バロックのバッハとロマン派ブラームスをつなぐ
「第3番」でも堀米さんの独奏部分でテンポに戦略的な揺らぎが生じていた。これには賛否があるかもしれない。淡々と流れる心地よい音楽に浸り続けたい聴き手と、メロディーの美質を味わいたい聴き手と、少なくとも2通りあるだろう。
人気の高い「第5番ニ長調BWV1050」では堀米さんがフルートの高木綾子さんと美しい掛け合いを展開した。高木さんのフルートは滋味のある厚い音色。堀米さんのバイオリンと呼応しながら、華やかな宮廷音楽というよりも、ドイツの素朴な田舎の響きを聴かせた。第1楽章の最後に登場した曽根さんのチェンバロ独奏も即興的な派手さよりも、ドイツ風の長大で重厚な建築物をきめ細かい音色で描いているようだった。
今回は全員が現代仕様の楽器で演奏した。堀米さんの「グァルネリ」も現代仕様になっている。古楽器演奏が普及した現代において、こうした「モダン楽器」で弾く意義について堀米さんは「両者がそんなに違うとは思っていない」ときっぱり。「私がバッハの『無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ』を録音したときも思ったが、メロディーを歌わせることに違いはない。モダン楽器でビブラートをかけ、和音も十分響かせ、きれいな音を鳴らすのはやはりいいことだ」とモダン仕様の楽器を使う利点を強調する。
堀米さんはバッハとブラームスをつなぐ演奏会を重ねている。それぞれドイツのバロックとロマン派を代表する作曲家の作品に通底する音楽性を探る企画だ。「ブラームスは本当によくバッハを研究していた。バスのリズムに当てはめてメロディーを弾くのが演奏の基本。そのことにこの2人が気付かせてくれた」と話す。「バスと旋律、その関わり合い、それから内声のハーモニー。『ブランデンブルク協奏曲』はその極致。だから面白くてたまらない」
1980年のエリザベート王妃国際音楽コンクールで優勝し、ベルギーで家庭を築き、現在に至る。「私は日本人として欧州に暮らし始めたわけなので、当初は(フィンランドの)シベリウス、(ハンガリーの)バルトークなど、欧州周辺の国々の作曲家の作品から攻めていったところがある。でも最近はバッハ、モーツァルト、ブラームスという欧州のど真ん中、ドイツとオーストリアの中核の作曲家にどっぷり取り組んでいる」。「ブランデンブルク協奏曲全曲演奏会」を通して堀米さんは、バロックとロマン派、古楽器とモダン楽器という二分法を超越した音楽そのものへのアプローチを、説得力を持って示した。彼女のバイオリンは音楽の普遍的価値を聴かせる熟成の領域にいよいよ入ってきた。
(映像報道部シニア・エディター 池上輝彦)
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