「左遷」で得た脱・銀行の発想 技術者不在で起業
エリーパワー 吉田博一社長(下)
旧住友銀行時代、いきなりの英国赴任は「飛ばされた」と思ったと話す吉田博一氏
元住友銀行出身のバンカーだった吉田博一氏は69歳で電池メーカーのエリーパワーを創業した。銀行の副頭取まで務め、人もうらやむ会社員人生を歩んできたように見えるが、「銀行を辞めようと思ったことが2度ある」という。最初はなかなか本店へ引き上げてもらえなかった若い時期。2度目は常務になってから。これという仕事もない格好で、「語学研修」を命じられロンドンへ転勤。だが、この不本意な人事が転機となり、セカンドキャリアを成功へと導く「脱・常識の発想法」を生んだ。(前回「69歳からの挑戦 遅咲き起業家が貫く「逆転の発想」」参照)。
「英語を覚えるまで帰ってくるな」
本店に引き上げられた後も、吉田氏は支店長として現場に戻り、9期連続の業績表彰を受けるほどの実績を上げた。順調に昇進・昇格し、1986年、旧住友銀行の取締役に就任した。
思いもよらぬ辞令が下ったのは、52歳のときだった。当時は常務だったが、突然、大阪勤務を命じられた。加えて、その半年後、今度は青天のへきれきともいえるロンドン駐在の辞令が下る。
「僕自身は『飛ばされた』と思っていますが、真相はわかりません。頭取に呼ばれてロンドン行きの辞令を受けたときは、銀行を辞めようかと思いました。あの経験がなければ、おそらく起業はしていなかったと思います」
ロンドン支店には当時、約300人のスタッフがいた。それを率いる支店長は常務取締役で同期。かたや300人の部下がいるのに対し、吉田氏に付けられたのは英国人の秘書と若い調査部のスタッフだけ。肩書は「常務取締役ロンドン駐在」。これという仕事はなく、派遣の理由もとくに聞かされないまま、「英語を覚えるまで帰ってくるな」という命令だった。
時はバブル絶頂期。吉田氏はその直前、経済活動に必要な適正水準を上回る量で現金や預金が流動する「過剰流動性」の問題を指摘した報告書を、銀行に提出していた。
「妻に相談したら、『仕事なんだから受ければ』と言う。とにかく行ってみるかと思ってロンドンへ行ったのですが、結果的にはそれが僕の人生を大きく変えた」
「銀行を離れても生きていける」と思った
このまま支店にいては部下もやりにくいだろう――。そう思い、赴任すると間もなく、ロンドンから約200キロメートル離れた郊外の町へ単身、向かった。日本人に遭遇することがほとんどない町だ。
マナーハウス(荘園領主の邸宅)に滞在し、英国人講師から英語の特訓を受けた。滞在中、日本語は厳禁。口元を隠して「s」と「th」の発音の違いなどを聞き分ける練習を一日中させられたときは、さすがに腹が立ち、日本語で思わず「うるさい、黙れ!」と怒鳴ってしまったこともあった。それでも楽しく過ごすことができたという。
「近隣のヨーロッパ諸国を見て回り、見聞を広めることができました。人生で初めて芝居を見にいったり、教会で音楽を聴いたり。英語を聞き取るのにいいからとすすめられ、モーツアルトを聴き始めたのもロンドン時代。裁判所にもよく行きました。裁判官の英語は聞き取りやすいんです。乗馬に挑戦したら、骨折しましてね。やることがたくさんあって飽きなかった」