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食の達人コラム

カナディアンウイスキー 日本の麹を使いこなして進化 世界5大ウイスキーの一角・ジャパニーズ(17)

2018/5/11

カナダ産ウイスキーの至宝、カナディアンクラブ

 今回はカナディアンウイスキー編の最終回。次回はいよいよ日本ウイスキーである。その直前に、日本の麹を利用したウイスキーのカナダでの誕生について紹介できることに大きな縁を感じてしまう。なぜその製法が日本でも採用されなかったのかも含めて、まずは高峰譲吉のその後を追う。

 イギリス留学から帰国して8年、譲吉が出願した特許「(麹による)酒精製造法特許」は、1887 (明治20)年、ウイスキーの国イギリスでまず成立し、翌年フランス、ベルギーでも特許を取得する。1889 (明治22)年には米国でも特許が成立した。この米国特許がきっかけとなって、譲吉はウイスキートラストから渡米を要請されることになる。

 同社は、1852年オーストリアから移住し、1881年自らの蒸溜所を創業した社長ジョゼフ・グリーンハットが立ち上げたカルテルで傘下に65のウイスキー蒸溜所と80近くの工業用アルコール工場を囲い込んでいた、当時米国で最大のウイスキー会社であった。

 1890(明治23)年、当時日本で東京人造肥料会社(現:日産化学)の設立に携わっていた譲吉は、家族、そして麹つくりの名人藤木幸助とともに渡米。ウイスキートラストが用意したとされる工業化試験用仮工場(試験場)であったシカゴの「ヒニックス醸造所」で、藤木とともにウイスキー製造の実験を開始する。結果は良好で、グリーンハット社長から、同社本社のあるピオリアの町でさらなる工業化試験に携わるよう要請される。イリノイ州の穀倉地帯の中心であった当時のピオリアは、全米のウイスキー原酒用アルコールの95%を供給する蒸溜の町だった。

 試験場での生産実験の進行とともに、新製造法では麦芽の使用がゼロになることがわかってくると、地元の精麦業者が反発。1893(明治26)年、譲吉36歳の時、試験場が放火され、大切な麹室をはじめ全て灰じんに帰してしまう。

 その後、グリーンハット社長の強力な後押しもあり試験工場を再建、再試験。譲吉の新方式は成功。シカゴヘラルド紙が報道。しかし、オオムギや麦芽に大きな権益を持つウイスキートラストの役員達が新方式導入に反対し、会社を解散していまい、本導入の道は閉ざされてしまう。1894(明治27)年40歳の譲吉はピオリアを去る。

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