歌手・佐田玲子さん 両親のゆるい後ろ盾、音楽の道へ
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はシンガー・ソングライターの佐田玲子さんだ。
――佐田3きょうだい、さぞにぎやかだったのでは。
「そりゃ、はちゃめちゃですよ。長兄(さだまさし)は超繊細で芸術肌、次兄の繁理(日本最初のプロサッカー選手、現さだ企画社長)は近所の子どもに悪さをする野良犬と、決闘するような男でした。私は兄たちの個性的なところを受け継いだと思います」
「稲佐山、中島川、子どもにとって最高の遊び場はすぐ隣。毎日泥だらけで遊びましたね。まさしは虫を怖がってましたけど。両親からは特にとやかく言われた思い出はありません。ただ、家に帰るとベートーベンの曲が流れている。両親の趣味なのかもしれませんが、私が音楽にかかわった原点ですね」
――幼年時に豪邸生活から長屋暮らしになった。
「父親がかなり豪快な人物で、よく言えば人生を投げない人、ようは何も気にしない性格なんですよ。長崎の豪雨で材木事業に失敗、小さな長屋に越しました。父のところにやって来るのは怖いおっちゃんばかり。お茶出しで、そうとう鍛えられました」
「家の状況がどんなかは子どもながらにも分かりました。でも、不幸だと感じたことはありません。いつも家族がそろってるし、笑いで包まれていましたから。何をやらかすか分からぬ父、それを支える母。バランスの取れた家庭だったのかもしれません」
――歌手になるつもりはなかったそうですね。
「長崎市で生まれ高校まで暮らしました。大学は東京の美大、その後はどこかの会社で……と淡い夢を抱いてました。音楽活動の会社をつくった兄まさしから『事務手伝って』。しばらく働くと『コーラス足りないんだ』。まさしの戦略にまんまとはめられた感じです。でも両親は『よか、よか』と応援。決して楽な仕事ではありませんが、今を楽しんでいます。両親のゆるい後ろ盾がなければ違う道を歩んでいたのかも」
「母は、まさしのバイオリンの英才教育で、幼稚園にも通わせず付きっきりでした。ただ私は納得していましたし、それ以外では本当に厳しく、優しい人でした」
――2009年に父、雅人さん、16年に母、喜代子さんが亡くなりました。
「死は悲しくないと言えば嘘になる。ただ、一生懸命に生きた両親の人生は娘として誇りに思います。佐田家に代々伝わるひな人形を出そうかねと話をした後、母は息を引き取りました。親戚や知人にも母の面倒を見てもらいましたが、可能な限り長崎市の母を訪ねました。抱きしめたり、話しかけたり、一緒に寝たり……。できることは限られていたけど母と過ごしたかった。『詩ばうとうとった方がよか』。母の最後の言葉です。思い出をどれだけ共有できるかで、家族の絆の深さが分かるのかもしれません」
[日本経済新聞夕刊2018年3月27日付]
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