高野耀子という生き方 輝き続ける87歳のピアニスト出会いの瞬間逃さず、世紀の巨匠たちに弟子入り

2018/3/26
旧西独デトモルトの北西ドイツ音楽アカデミーでハンス・リヒター・ハーザー教授の指導を受ける(1954年)

リヒター・ハーザーも耀子の演奏を気に入り、デトモルトの北西ドイツ音楽アカデミーに、入学試験免除で留学する手はずを整えてくれた。3年間みっちり学び、54年にイタリアのビオッティ国際音楽コンクールのピアノ部門に臨むと審査員全員一致の第1位を獲得した。「日本人の国際コンクール優勝第1号」とはやされ、日本各地から演奏依頼が殺到した。「24日間に21回も弾かされたこともあった。冷房のないところでは汗だく、逆に寒い楽屋ではどてらを着て風邪をひかないようにする。放送録音では暖房代わりの電熱器でやけどをしそうになる……。おまけに私の演奏、何かが欠けているのよね。だんだんステージの演奏が『グロテスクだ』と思え、スーツケースを見るたびに旅行恐怖症も募り、吐き気までしてきたの」

ミケランジェリに弟子入り志願

転機は65年。完璧主義ゆえにキャンセル魔とも呼ばれたミケランジェリがついに、初来日した。リサイタルを聴きに出かけた高野は演奏に打ちのめされ、コンサートが終わったころにはもう、「この人に弟子入りしよう」と決めていた。招へい元の読売新聞社から、ミケランジェリが泊まっているホテルを聞き出して突撃。「たぶんフランス語だったけど、私、とんでもない質問から始めたの」

「先生のレッスン、おいくらですか?」

「私は生まれてこの方、お金を取って教えたことはない」

「では(留学した場合の)生活費はどれくらい?」

「あなたはぜいたくが好きですか?」

「とても好きです」

「それは、いけませんね。ところで、君はどんなピアノを弾くんだね?」

「私、非常に音楽的ですけど、指がよく回りません」

「本当かい?」

「放送録音のテープをお送りしますから、まずはご自分の耳でお確かめください」

「絶対に弟子入りできる」と確信していた高野は、返事を待たずに日本をたち、南回りの航路を乗り継いでミケランジェリのマスターコース開催地、イタリアのシエナに着いた。カフェで待ち伏せをして試験の約束をとりつけ、ラベルの「ソナチネ」を弾いた。「先生は変わっていて、生徒が弾いている間、部屋の中をぐるぐる回りながら聴いていて、1度も座らないの。自分が教えるようになって、それは理にかなっていると気付いたのは後々のことよ」。先方も高野の演奏を気に入ったらしく、4年間も丁寧に教えてくれた。

以後はゆっくり、自分が納得できる演奏・教育活動を自然体で続けてきた。「ステージで弾いていて、ホール全体が『一つのもの』になったと感じた瞬間、『やったあ!』って思うのよ」

2018年、東京・南馬込の自宅で。父が残したアトリエがそのまま、ピアノスタジオだ

日本の聴衆や音楽評論家は奏法に関してもドイツ式、フランス式、ロシア式……とピアニストの国籍や留学先に応じて色分けしがちだ。高野は「日本語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、英語が頭の中に入り乱れている」のを逆手にとり、「使えるものは何でも使い、自分なりの表現を結実させる」といういき方だ。

「ピアニストのレベルは年々上がっているけど、最近はネット上の動画で同じ曲の演奏を20通りとか聴けるから、個性をはぐくむのは逆に大変ね。私たちの時代は他の演奏を聴くには音楽会へ出かけるしかなく、個性は楽譜をひたすら読み込まない限り深められなかった。でも本当の個性というのはね、ピアニストが自己を主張するのではなく、作品自体の素晴らしさをいかに伝えられるかに、かかっているのよ」

高野が生まれた31年のパリ。ラベルはまだ生きていたし、ドビュッシーも亡くなって13年しかたっていなかった。戦争をはさんで20世紀の空気をたっぷり吸い、世界を渡り歩いて究めてきたピアノ芸術は今、限りなく美しい夕映えに輝いている。=敬称略

(コンテンツ編集部 池田卓夫)

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