東京・南馬込の閑静な住宅街。今年10月20日で87歳になるピアニスト、高野耀子(こうの・ようこ)は日仏画壇で活躍した父の三三男(みさお)が残したアトリエにグランドピアノを並べ、穏やかな時間をゆっくり、楽しんでいる。パーソナルトレーナーをつけて足腰を鍛え、克明な記憶と鋭い批評精神に裏打ちされた言葉の数々。このみずみずしさは、どこからくるのか。
◇ ◇ ◇
演奏家としても、もちろん現役だ。80年以上にわたってピアノを究めてきた人生の折々にアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ、ハンス・リヒター・ハーザーら20世紀の巨匠ピアニストたちとの貴重な出会いがあった。チャンスを逃さずに即行で弟子入りを志願し、様々な文化圏の音楽様式や演奏法を全身にたたき込んだ。
4歳で突然、「音楽家になる」と宣言
生まれはパリのモンパルナス。アールデコ様式の画家として評価を確立した父は、パリ18区にあった芸術家アパートに住むことを許されていた。「父はバイオリンをたしなんだけど、母はオンチ。子どもに歌を聞かせることができない代わりに、アルフレッド・コルトーが弾くショパンのSP盤をずっとかけていた」という。4歳で突然、「私はピアニスト、作曲家、指揮者になる」と宣言した。
同じ階には女性のピアノ教師がいた。「あめ玉につられ、親に内緒で手ほどきを受けたら上達が早かったらしく、うちへ来て『お嬢さんには才能があります』と。アパートには大指揮者のピエール・モントゥーも住んでいて、そこにも先生が連れていった。親はかんかんで『知らない人にあめ玉をもらったり、ついていったりするな』と叱られた。私はこの先生が嫌で嫌で反抗ばかりしていたし、父も『なんか嫌な音を出す』と気付いて知人に相談、7歳でマグダ・タリアフェロ(ブラジル出身、主にフランスで90歳代まで活躍した女性ピアニスト)に弟子入りできた」。幸運な出会いの始まりだ。
「戦争がなかったら、両親は日本へ戻らなかったはず」。国際情勢の急激な悪化で帰国を決め、1940年(昭和15年)、現在の住所に落ち着いた。日本語よりフランス語が口をついて出て、モダンなおかっぱ頭に革靴の洋装。当時の馬込は農村だったから「小学校ではさぞ、いじめられたでしょう?」と質問した。「毎日が戦争よ」と不思議な答え。「全然、いじめられるタイプじゃないの。何か仕掛けられると、私が『戦争だ!』とものすごい勢いで仕返しをするのよ。いつの間にか、すごいイケメンだった担任の先生が私のガード役をかって出るようになった」。父は深川出身の江戸弁。「このままじゃ大変な娘になると思ったのか、いきなり白百合女子学園というお嬢様学校へ転校させられたので、今度は『ごめんあそばせ』の世界。15歳で東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)に入ると逆に、丁寧過ぎる言葉遣いで浮いちゃったのよ」
日本に収まる器ではなかった。戦後社会がいささかの落ち着きを取り戻した48年に、同校を中退。再びフランスへ渡り、パリ音楽院に留学した。恩師のジョセフ・ベンベヌッティは知名度の高いピアニストではなかったが「私の最もすてきな先生」といい、今もアトリエのあちこちに写真を飾る。音楽院を卒業し「パリでぶらぶらしていた」という52年の暮れ。何度か伴奏をしたドイツのバイオリニストが、実家のクリスマスに招いてくれた。「ドイツの食生活なんて知らないので、いつも冷たいものを食べていて『貧乏なのかしら?』と思っていたら、とんでもない。運転手付きの車が迎えに来て、庭にはプールのある豪邸だったわ」。同時期にリヒター・ハーザーも同じ家に滞在、そのベートーベンの音を聴いて『これだ!』と思った高野は即、弟子入りを志願した。