チェンバロ奏者・平野智美 バロック三大巨匠を弾く
チェンバロ奏者の平野智美さんが同じ1685年生まれのバロック音楽の三大作曲家、スカルラッティ、ヘンデル、バッハの作品を収めたCDを出した。弾き比べの妙技について聞いた。
東京都立川市の郊外に広がる国立音楽大学キャンパス。平野さんが講師を務める同大学の統合練習館に、ユーモラスな猿の絵柄を施したチェンバロが持ち込まれた。「モンキー・チェンバロ」と呼ばれる楽器で、現代の名匠デビッド・レイ氏が1985年に製作した。パリ郊外のトワリー城に未修復のまま保存されている1733年製作の「ブランシェ・チェンバロ」をもとにしている。猿の白磁風シノワズリ(中国趣味)装飾もオリジナルと同様に描いた貴重な複製楽器だ。
■1685年生まれの作曲家3人の作品を1枚に収める
平野さんがこのチェンバロを使ってレコーディングしたのがCD「〈1685〉後期バロックの3巨匠―スカルラッティ、ヘンデル、バッハ―」(製造・発売元 コジマ録音)。2017年4月に五反田文化センター(東京・品川)で録音され、17年11月に発売された。この日の国立音大でのインタビューでは、同じチェンバロを使って3人の作曲家の作品を弾き比べながら、自身の最新CDについて語った。
「後期バロックを代表する3人の作曲家が偶然にも1685年生まれというところに着目し、3人の作品を1枚に収めてみたいと思った」。今回のCDを制作した狙いについて平野さんはこう話す。3人が生きた時代のチェンバロの複製楽器を使った意味もここにある。イタリアのナポリに生まれ、ポルトガルとスペインで活躍したドメニコ・スカルラッティ(1685~1757年)。ドイツのハレに生まれ、英国に帰化したゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759年)。そしてドイツのアイゼナハに生まれ、終生ドイツで活躍したヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750年)。3人の作品が1枚のCDに並ぶ。「バッハの曲だけでも何枚もCDができるし、スカルラッティの曲もたくさんある。でも3人の作品をバランスよく収めて弾き比べたかった」と平野さんはコンセプトを説明する。
3人ともチェンバロなど鍵盤楽器のための作品を量産しているが、平野さんの選曲は凝っている。スカルラッティはスペイン王妃バルバラ・デ・ブラガンサのために鍵盤楽器のためのソナタ(練習曲)を555曲も作曲した。その中から4曲を選んだ。「雰囲気やテンポが異なる作品を入れたかった。スカルラッティのソナタは速い曲がほとんどだが、あえてゆっくりしたテンポの曲も選んだ」と話す。
今回の映像ではスカルラッティの速いほうの曲「ソナタヘ短調K.184」を弾いている。CDの冒頭に収めた曲だ。「スカルラッティの作品では、躍動感を出すために、指を手前に素早く取るような速いタッチを心掛けた」と弾き方で工夫した点を説明する。旋律や和声の輪郭がくっきりと浮かび上がるような明快な演奏を繰り広げている。こうして巨匠3人の作品ごとに弾き方を変えながら、それぞれの音楽の個性を浮き彫りにしている。
ヘンデルの作品からは「クラヴィーア組曲第1集」の「組曲第1番イ長調HWV426」を選び出した。ヘンデルの音楽活動の主な舞台はロンドンだったが、鍵盤楽器のための楽曲には当時のフランス流の趣味が随所に反映しているといわれる。そこで「ヘンデルの作品では演奏もフランス的な要素を示そうと思った」。映像では「組曲第1番」の「プレリュード」を弾いている。「和音を鳴らすときに指を離さないように弾いた」と演奏法を語る。「チェンバロはペダルがないので、ピアノのように指を離してしまうと、和音がきれいに響かなくなる」からだ。
そしてバロック期の最も重要な作曲家といわれるバッハについては2作品を選曲した。一般の認知度が高い「イタリア協奏曲ヘ長調BWV971」(協奏曲の名前が付いていても鍵盤楽器の独奏曲)、それに平野さんが大好きだという「半音階的幻想曲とフーガニ短調BWV903」だ。映像では後者のうち「幻想曲」のほうを弾いている。「様々な箇所で半音階が登場する。同じ半音階でもタッチを歯切れ良く弾く箇所もあり、オーバーレガート(過剰なほど切れ目なく滑らか)気味に響きを豊かにして弾く箇所もある。響きにそういう違いを出して弾いた」と話す。
■各国の宮廷ごとに異なる音楽の流儀や趣味を反映
平野さんが奏法を変えて巨匠3人の作品の個性を浮き彫りにした背景には、18世紀前半というバロック後期の欧州社会の状況がある。当時はフランス革命以前の絶対王制の時代。フランスやスペイン、英国の王室、神聖ローマ帝国(ドイツ)の諸侯の宮廷など各地で異なる趣味と流儀の音楽が作られ、演奏された。バロック音楽の作曲家はほとんどが宮廷音楽家を経験している。彼らは宗教音楽を別にすれば、王侯貴族の催しで演奏するために主に作品を書いた。チェンバロはこうした時代に最ももてはやされた鍵盤楽器だった。
啓蒙思想が台頭し、フランス革命を経て市民社会が開けてくると、作曲家は市民向けの演奏会のために作品を書くようになる。バロックに続くモーツァルトやベートーベンら古典派の時代になると、自由・平等の人権意識に基づく啓蒙思想を背景に、全欧州に通じる国際標準の古典形式で市民や人類も念頭に置いて作品を書くようになった。しかしバロック後期ではまだ各国の音楽様式が異なっていた。平野さんの演奏はそうした差異の面白さを聴き手に気付かせてくれる。
平野さんはもともとピアノを習っていた。「高校生のとき、テレビでチェンバロの演奏を見た。それとたまたまピアノの先生に教えてもらってチェンバロの演奏会に行ったのが偶然重なった。深く考えずにチェンバロを弾こうと思い立った」と振り返る。バロック音楽を中心とした古楽器合奏・合唱団バッハ・コレギウム・ジャパンの音楽監督でチェンバロ奏者の鈴木雅明氏に師事した。東京芸術大学音楽学部器楽科を卒業し、同大学院を修了。文化庁特別派遣芸術家在外研修員として英国に派遣され、研さんを積んだ。ソロのほか国内外のアーティストとの共演による室内楽コンサートでも活躍している。
■演奏家の呼吸がじかに伝わる生演奏にこだわる
チェンバロの楽器としての魅力について平野さんは「音域によってそれぞれ音のキャラクターが違う」ことを挙げる。「高音域はきらびやかな音色。中音域は柔らかく温かい。低音域は深い音色。ピアノよりも明確に音域のキャラクターがあるのが好きなところ」と話す。チェンバロの音量はピアノよりも小さい。だからこそ「チェンバロはわりと小さな会場でサロンコンサート風に演奏することが多い。ピアノよりもお客さんに近い場所で、演奏家の呼吸がじかに伝わる演奏をしていきたい」と抱負を語る。
5月12日には千葉県南総文化ホール(千葉県館山市)で「平野智美&Friends」と題したコンサートを開き、バッハの「チェンバロ協奏曲第1番BWV1052」やヴィヴァルディの「四季」などを弦楽奏者らと演奏する。「チェンバロの印象を聞くと、音がシャンシャンしていると答える人が多い」。確かにバロック音楽では通奏低音を担う伴奏楽器のイメージもある。しかし「私はチェンバロという楽器で歌いたい」と平野さんは強調する。今回のCDでも奏法に工夫したのは「曲を歌わせたかったからでもある」という。
「一人でも多くの方々にチェンバロの生の音を届けたい」というのが平野さんの希望だ。ピアノに比べ普及台数も演奏会の回数も少ないチェンバロ。生演奏を聴いた人も少ないはずだ。「生演奏には響きの震動がある。チェンバロの弦が震動し、箱が震える」。CDを入り口にしてチェンバロの聴き手が増えることを願いつつ、生演奏にこだわって音楽活動を続ける考えだ。
(映像報道部シニア・エディター 池上輝彦)
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