東京の地下鉄、レール幅なぜ違う 直通巡り二転三転
縦横無尽に張り巡らされた東京の地下鉄。東京メトロと都営地下鉄、合わせて13の路線があるが、実は線路の幅が同じではない。なかでも都営は4つしか路線がないのに、3つのレール幅が混在している。なぜこんな事態になったのか。歴史をひもとくと、そこにはレール幅を巡る苦難の歴史が潜んでいた。
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都営地下鉄、4つの路線に3つのレール幅
鉄道のレール幅は軌間、ゲージともいう。世界的には1435ミリメートルが標準軌と呼ばれ、採用している国が多い。一般的にレール幅が広い方が安定性に優れ、乗り心地が良くなる。速度も出しやすい
都営地下鉄の場合、浅草線と大江戸線が標準軌だ。新宿線は馬車の幅と同じ1372ミリ、三田線は狭軌と呼ばれる1067ミリとなっている。なぜ違うのか。
東京都交通局に聞くと、「直通する鉄道会社に合わせた結果」という。それぞれの路線がレール幅を選択した経緯を調べてみると、一筋縄ではいかない複雑な事情が見えてきた。
京成電鉄、直通目指し全線でレール幅拡大
都営地下鉄で最初に開通したのは浅草線だ。開業は1960年(昭和35年)。当初から京浜急行電鉄(京急)、京成電鉄との直通運転を想定して計画が進められた。
東京都交通局が1971年(昭和46年)にまとめた「都営地下鉄建設史―1号線―」によると、1号線と呼ばれた浅草線をはじめ、都が建設する地下鉄は「既設の郊外私鉄と直通運転ができるよう規格を統一すべきである」という運輸省都市交通審議会(当時)の答申に従って進められた。都は京急、京成と協議を重ね、車両数が少ない京成が折れる形で、京急の1435ミリに統一することで合意した。
ただし、浅草線と先に直通運転を始めたのは京成だった。当時、京成が使っていたレールは1372ミリ。直通を実現するため、なんと京成は80キロ以上にわたってレール幅を広げる工事を敢行したのだ。
1996年(平成8年)発行の社史「京成電鉄85年の歩み」によると、全線を11の工区に分け、終電後に工事を行った。全長82.5キロの難工事だったが、1日も運休せず、2カ月弱で乗り切ったという。都心部への乗り入れは、同社にとってはどうしてもかなえたい悲願だったのだ。
縮めてまた戻した京急
こうした京成の苦労に比べると、変更なしで楽に見える京急だが、実は直通に至るまで既に2回もレール幅を変更していた。それも1435ミリ→1372ミリ→1435ミリと、いったん縮めた幅を再び広げたのだ。なぜこんな奇妙なことになったのか。
1980年(昭和55年)発行の社史「京浜急行八十年史」に詳しい経緯が載っていた。順を追ってみていこう。
1899年(明治32年)、京急の前身、大師電気鉄道は六郷橋―川崎大師間で開通した(直後に京浜電気鉄道と社名変更)。同社は関東で最初の電車方式による鉄道路線で、標準軌(1435ミリ)を採用した。その理由について、社史はこう記す。
「アメリカ合衆国で発達した電気鉄道に範を求め、その技術を摂取しやすくしたと考えるのが妥当であろう」
当時、日本国有鉄道(国鉄)が採用していた1067ミリを、より広いレール幅に拡大しようとの議論があった。その方が安定して、より速度が出ると考えられたからだ。だが社史はこの説を否定する。モーターなど多くを輸入に頼っており、海外の手法にならった方がいいと判断したようだ。
京浜はその後、東京都心への進出を探ったが、なかなか許可が下りない。そこで品川で路面電車敷設を進めていた東京電車鉄道(後の東京市電)との直通を狙う。
東京電車鉄道のレール幅は1372ミリ。乗り入れるにはレール幅を統一しなければならない。直通に向けた準備として、全面的にレール幅を変更することにした。社史は変更について「単なる直通運転にとどまらず、企業合同の可能性が存在したと推察される」と記す。そこまでにらんでの大改修だった。
しかし、せっかく工事したのに、結局直通は実現しなかった。東京電車鉄道は東京市街鉄道、東京電気鉄道と合併して東京鉄道となった後、東京市が買収。その東京市が乗り入れに消極的だったからだ。
京浜電気鉄道はその後、神奈川の三浦半島へと事業を拡大していく。神奈川で勢力を伸ばしてきた湘南電気鉄道と合併したのだ。湘南電気鉄道が採用していたのが標準軌。京浜は遅々として進まない都心乗り入れよりも神奈川方面への進出を選択し、1372ミリから1435ミリへの改軌を決断する。1933年(昭和8年)のことだった。これにより「品川~浦賀」という長大な路線が誕生し、浅草線との直通の布石となった。
直通巡り二転三転した三田線
都営三田線もまた、複雑な事情を抱えて開通した路線だ。東京ふしぎ探検隊では「悲劇の都営三田線 大手町駅が『大手町』にない理由」(2014年4月25日公開)で三田線の経緯を詳しく書いた。簡単にまとめておこう。
三田線も当初は浅草線と同じく、1435ミリで計画された。だがその直後に北は東武東上線、南は東急池上線に乗り入れることとなり、両社に合わせて1067ミリに変更。「都営地下鉄建設史―1号線―」は「両社から要請があった」としている。
しかしすったもんだの末、直通は見送られる。東武、東急それぞれ事情があり、両社に袖にされた形となった。結局、都は1067ミリのまま単独で工事に踏み切る。ただし1435ミリではなく1067ミリとしたことで、2000年には東京メトロ南北線、東急目黒線との直通が実現した。長い目で見れば、レール幅を変えた意義はあった。
変更を拒否した京王 新宿線が計画変更
では新宿線はどうか。なぜ1372ミリという中途半端なレール幅なのか。
新宿線も、浅草線、三田線と同じく、計画当初は1435ミリとなっていた。1970年代後半、都は新宿線と京王線が直通運転するにあたって、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)に対してレール幅の変更を求めた。京王線は当時、1372ミリだったからだ。
だが、京王は1435ミリへの変更を拒否する。1978年(昭和53年)発行の社史「京王帝都電鉄30年史」に、当時の苦労が記されていた。レール幅を変更する改軌を社内で検討した結果、無理だとの結論が出たという。
「改軌についてはあらゆる角度から検討を進め、工事期間中各ネック区間における輸送力と輸送量の比較、代行輸送機関(バス)の輸送効率およびこれと関連する道路交通の混雑、折返し設備設置の可否、乗換駅における混乱および輸送サービスの低下等を含め、最終的には改軌は非常に困難との結論」
結局、新宿線が計画変更することで折り合った。
ところでそもそも京王はなぜ他社がほとんど採用していない1372ミリだったのか。
ルーツを探ると、馬車に行き当たる。馬車鉄道が採用していたのが1372ミリだったのだ。馬車鉄道から発展した路面電車も1372ミリを踏襲し、京浜(後の京急)や京成も1372ミリからスタートするなど、当時としては珍しくない軌間だった。
最後に大江戸線。都営地下鉄としては最後に誕生した路線だが、1435ミリの標準軌だ。直通相手がいないことに加え、「リニアモーター方式を採用したため、軌間は広い方が有利」(東京都交通局)との判断があったようだ。
レール幅が違うことで不都合はないのか。東京都交通局に聞くと、「保守車両を共用することが難しく、高コストになるなどの課題がある」とのこと。整備する工場も複数必要となるという。
東急が銀座線に合わせたレール幅を検討していた
ところで、レール幅を巡る物語といえば、東急と銀座線の秘話も外せない。東急は1956年(昭和31年)、「渋谷~二子玉川園(当時)」間、つまりは新玉川線の免許を申請する際、東横線などと同じ1067ミリではなく、1435ミリを採用した。
すべては「銀座線への乗り入れを実現するため」。1980年(昭和55年)発行の「新玉川線建設史」はこう記す。その2カ月後に免許申請した新路線、「溝ノ口(当時、現在は溝の口)―長津田」間の田園都市線も1435ミリだった。東急は、銀座線に乗り入れて都心へ進出する腹づもりだったのだ。
ただ、方針は1年で覆る。銀座線ではなく、今度は小田急線との乗り入れを視野に入れ、1067ミリに計画を変更。この辺りの詳しい経緯は「東急・田園都市線は銀座線と直通予定だった」(2013年3月8日公開)を参照してほしい。
鉄道のレール幅の違いについて、ふだん意識することはまずない。わずか40センチほどの違いなんて、ホームから見ても分からないだろう。だが、鉄路の向こうには、血のにじむような歴史が刻まれている。
(生活情報部 河尻定)
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