アーサー、プレスター・ジョン、女教皇 謎の英雄3選
科学で迫る世界のミステリー
世界には、多くの英雄伝説がある。国や民族を救った偉大な王、病気に苦しむ人々を治療した聖人などさまざまなタイプがあるが、実際に存在した人物なのか、願望から生まれた夢物語なのか、わからないものも少なくない。ナショナル ジオグラフィックの別冊『今の科学でここまでわかった 世界の謎99』でも、そのような伝説のいくつかを取り上げている。その中から、「アーサー王」「プレスター・ジョン」「女教皇ヨハンナ」という3つの伝説を紹介しよう。
英国の英雄アーサー王
アーサー王誕生のいきさつについては、一般に次のように認識されている。「『あなたこそがこの国の王になるお方に違いありません』とサー・エクターがアーサーに言った。『なぜ私なのですか。どうしてですか』とアーサーが問うと、エクターは『神がそのように思し召しなのです。この剣は、この国の正統な王になる方にしか抜けないのです』と答えた」
15世紀にトーマス・マロリーが小説『アーサー王の死』を書いたときには、アーサー王はすでに超自然的な力を持つ王として英国人の心に定着していた。だが現代になると、アーサー王が実在したのか否かが歴史家の間で議論になった。6世紀のケルト人の修道士ギルダスは、500年ごろに侵入してきたサクソン人とブリトン人の戦いについて記しているが、アーサーのことには触れていない。
武将としてのアーサーに初めて言及したのは、9世紀のウェールズ人の歴史家ネンニウスだ。中世のジェフリー・モンマスの『ブリタニア列王史』では、アーサーは王に昇格し、王妃ギネヴィア、マーリンなどの人物も登場する。現在、歴史学者の見解は分かれている。
アーサーがいたとされる時代に残された記録がないことから、アーサー王は後の世の創作だという説がある。その一方で、証拠がないということが、実在しなかったことの証拠にはならないと主張する研究者もいる。現代では実在していたことが判明している歴史上の人物が、かつては作り話だとされていた例はいくらでもあるというのだ。考古学上の証拠が発見されない限り、この議論に決着がつく日は来ないだろう。
キリスト教国の王プレスター・ジョン
12世紀のヨーロッパで、十字軍を救う救世主として大いに歓迎された英雄がいる。謎のキリスト教国の王プレスター・ジョンだ。そのいきさつは次のようである。
1165年頃、ビザンチン帝国皇帝のマヌエル・コムネノスは驚くべき書簡を受け取った。送り主は、歴史上もっとも偉大な王に匹敵する人物で、しかもキリスト教徒のプレスター・ジョンだという。東方の豊かで魅惑的な王国を統治しており、「我が国は72の王国を従えている」と書かれていた。領土には、ゾウ、グリフィン、鬼女、巨人、サテュロスなどが住み、貧者、姦夫(かんぷ)、泥棒、守銭奴はいないという。だがヨーロッパ人が一番心引かれた点は、プレスター・ジョンが聖地に軍隊を派遣し、ムスリムと戦うと書いていることだった。
書簡のことを知った教皇アレクサンデル3世は真剣に返書をしたためたが、プレスター・ジョンからの返事はなかった。それ以来、数百年もの間、謎のキリスト教の君主プレスター・ジョンを探そうと、アフリカやアジアへの探検が相次いだ。修道士のプラノ・カルピニは、苦難の旅の末、モンゴルの支配者グユク・ハーンにたどり着いたが、残念なことにプレスター・ジョンでもキリスト教徒でもないことが判明した。マルコ・ポーロも、旅をしている間、プレスター・ジョンを探している。ポルトガルの探検家バルトロメウ・ディアスやバスコ・ダ・ガマもプレスター・ジョンを見つけることはできなかったが、結果的にインドへの航路の開拓につながった。
やがてあきらめムードが漂って探索は下火になり、プレスター・ジョンは架空の人物ということに落ち着いていった。現代の歴史学者は総じて、1165年の書簡は中世の大胆な悪ふざけだったと考えている。
ちなみに、プレスター・ジョンはシェイクスピアの喜劇『空騒ぎ』のベネディックのセリフにも登場する。「アジアの最果てに行って、爪楊枝を取ってきます。それともプレスター・ジョンの足のサイズでも測ってきましょうか。(中略)この性悪女と少しでも話をするくらいなら、そのほうがましでございます」
伝説の女教皇ヨハンナ
女性の教皇がいたという話が持ち上がったのは、13世紀のことだ。噂は瞬く間に事実として受け入れられた。当時の年代記編者によると、855年に教皇レオ4世が逝去した後、立派な男性として評判の高かったマインツのヨハネが教皇の地位を継いだ。教皇になってから2年がたったある日、ヨハネはローマでの行列の最中、痛みに襲われて気を失う。そしてなんと息子を出産し、死亡したというのだ。教皇ヨハネは、実は女教皇ヨハンナだったとされた。
何世紀もの間、人々は女教皇がいたことを史実だと信じてきた。シエナ大聖堂の歴代教皇の胸像の中に、彼女の像があったし、ルネサンス時代の歴史家は、女教皇に関する記述を残している。ローマ教皇の行列は、ヨハンナが出産したとされる場所を避けて通ったという。また、カトリック教会を批判するプロテスタントは、何かにつけてこの話を蒸し返したがった。
だが時の流れとともに、学識者たちの意見は変わる。実際に855年に教皇レオ4世の跡を継いだのはベネディクト3世であると指摘したのだ。現代の文書には女性の教皇への言及はなく、女教皇が実在した可能性は非常に低いといえる。
それでも、高い教養がありながら、身ごもって命を落とした女教皇ヨハンナの数奇な生涯は、舞台や小説、映画によって21世紀にも伝えられている。
[書籍『今の科学でここまでわかった 世界の謎99』を再構成]
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