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食の達人コラム

今、バーボンウイスキーの黄金時代 二度の逆境を克服 世界5大ウイスキーの一角・ジャパニーズ(14)

2018/3/9

日本でも数多くの銘柄が流通するバーボン

 ケンタッキーの開拓が進んだ時期は、スコットランドやアイルランドで「The Clearances(追放)」という動きが広まった時期と一致する。産業革命による毛織物業の発展に伴う羊毛需要の増大を背景に、何百年もの間土地を耕してきた小作人たちを追い出し、畑作から牧羊に転換する動きだ。追放された農民の行き場はスコットランドのローランドであり、北米であり、オーストラリアだった。極貧にあえいだアイルランド人小作人と違い、スコットランド人は農業やウイスキーづくりの技術があり、自ら蒸溜を行うものも多かった。

 このブルーグラスカントリー、ケンタッキーの開拓を推進したのはワインの大愛好家であったトーマス・ジェファーソン。バージニア植民地議会議員を皮切りに政治家生活に入り、1776年の独立宣言の主要起草者、バージニア州知事(1779-81)、駐フランス大使(1785-89)、国務長官(1790-93)を経て、第3代大統領(1801-09)に就任する。1803年に悪名高きウイスキー税撤廃を宣言したのは、彼だった。その彼が、ケンタッキーがウイスキーのメッカへと発展する礎を築く上で重要な役割を果たしたのだった。

 評価が高まる国産ウイスキーへと至るウイスキーの歴史と魅力をひもとく本連載、今回は衰退と復活を繰り返したバーボンの歴史を振り返る。

 1792年までケンタッキーはバージニアの一部であった。バージニアで生まれ育った彼は、ケンタッキー盆地への連絡路を整備し、東部の植民地からの入植を推進した。開拓者に対して以下の提案をしたことが伝わっている。

「耐久性のある構造物をつくり、とうもろこしを栽培する者には60エーカー(24.4ヘクタール)の土地を与える」。

 ケンタッキー開拓といえば、ダニエル・ブーンを忘れてはならない。西部開拓史上の英雄だが、アパラチア山脈のV字渓谷、カンバーランド・ギャップの切り立った断崖の間に発見された道を広げ、バージニアとケンタッキーの往還道を開いたのは彼であった。1775年のことだ。以来「Wilderness Road」として知られたこの道を通って多くの開拓者がケンタッキー、そして隣のテネシーに入植した。

 ちなみにブルーグラスはケンタッキーの山野に生えている草丈6~30センチメートルの牧草のこと、1年中青々としている。ケンタッキー州は石灰岩の岩盤の上に広がっており、岩盤から溶け出すカルシウムがブルーグラスを通じて馬に吸収され、骨格を丈夫にすると言われている。それが競争馬の産地の由縁である。

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