鈴木明子さん 目標の先をイメージして苦難乗り越えた
フィギュアスケート五輪元日本代表の鈴木明子さんに聞く(中)
大学1年生のときに患った「摂食障害」で体重が32kgまで落ち、練習どころか普段の生活もままならない状態になってしまったというフィギュアスケート五輪元日本代表の鈴木明子さん(詳しくは前回記事「鈴木明子さん 体験から語る『摂食障害の本当の怖さ』」参照)。宮城の大学から愛知の実家に帰って治すことにしたが、その後、どのような経過をたどったのだろうか。今回は「摂食障害をどう克服して復帰につなげたか」をお届けする。
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実家に帰った後、最初は娘の摂食障害を受け入れられず、「それでは栄養が足りない。お米もお野菜も食べなさい」と言い続けていた母も、やがて食べたくても食べられない私を受け入れ、「あれもこれも食べなさいとは言わない」「食べられるものだけ食べれば十分」「スケートも諦めなくていいのよ」と言ってくれるようになりました。私はふっと心が軽くなったような気がしました。
「摂食障害」を治す上で唯一の救いだったのが、全ての食べ物を受け付けないのではなく、野菜やお豆腐、果物などの食べられるものがあったということです。とにかく咀嚼(そしゃく)の力や胃の消化といった体の機能を弱めてはいけないと思い、食べられるものだけを少しずつ食べていきました。
そのとき実感したのは、人間、痩せるのは大変だけど、太るのも大変だということ。大学1年生の4月頃から症状が出始め、夏には32kgまで落ち、治療を始めてから12月の段階でやっと40kgまで戻りました。それでも、食べられるものには限りがあり、「食べたら太る」という恐怖心は抜けないままでした。最初に食べられなくなったのがお肉でしたが、実はお肉を食べられるようになるまで丸3年かかったんです。
約5カ月間リンクに立てず、1カ月のリハビリ期間を経て練習を再開しました。以前とは全くレベルは違いますが、摂食障害になってから1年半後には全日本の大会に出場することができました。
完治後の姿をいかに具体的にイメージできるか
そのスピードで復帰できたのは、母や周囲の人の支えはもちろん、一定期間スケートから離れて休養し、治療(食べること)に専念できたことと、何よりも「具体的な目標」を持つことができたからです。
どの病気にもいえることですが、症状が重ければ重いほど、「ただ治す」ことが目的では頑張る気力が続かないし、つらい闘病生活を乗り切るのは難しい。特に摂食障害になりやすい人は、完璧主義者や神経質、目標に向かって頑張ることを生きがいにしているタイプが多いような気がするのです。私がまさしくそうしたタイプで、周りに「学校もスケートもやめて、とにかくこの病気を治しましょう」と言われても、「治ったところで、私はその先何を目標に生きていくの?」と思ってしまった。
そんな中、「スケートは諦めなくていい。続けていいよ」と言ってくれた母の言葉のおかげで、「自分が生きるための目的」を失わずに済みました。「最も輝いていた、スケートをしている頃の自分になるために今具体的にできることは、ご飯を食べること」だと思えるようになり、「もう一度滑っている姿を見せて、母や応援してくれた人たちにも喜んでほしい」といった前向きなイメージを描けるようになりました。
自分が最高のパフォーマンスができたときのイメージトレーニングをしているトップアスリートの話などを耳にしたこともあると思いますが、私の場合トレーニングという意識ではなく、「何のために病気を治すのかな」と自問自答したのです。結果的に、イメージトレーニングのようなことをしていた。おかげで、「治したい!」という能動的な強い思いにつながり、原動力となりました。
このときに経験した、「壁を乗り越えるための目標の持ち方」は、その後の競技生活やメンタル面において大いに役立つことになります。
思うに、「オリンピックに出たい」といった漠然とした目標では、本当につらいとき、苦しいときに踏ん張れません。大事なのは、「オリンピックに出場した先で自分がどうなっていたいのか」といった「目標を達成した先」をイメージすることだと思うのです。例えば、
↓
・それを達成したとき、自分はどんな感情を抱いているのか
・演技終了後、私は飛び跳ねてガッツポーズをしているのか、感極まって泣いているのか
・会場のお客さんはスタンディングオベーションをしているのか
・私が競技を終えてリンク脇に戻ってきたとき、コーチはうれし涙を浮かべて待っていてくれるのか
……といったことを自分に問いかけ、「なりたい自分」をイメージする。
それは仕事でも同じだと思います。成果を出したとき、上司や、そのサービスを利用したユーザーはどれだけ喜んでくれるのかなどとイメージできる人ほど、ポジティブな考え方になりやすく、目標を達成できる確率は高まるように思います。恐らく五輪で金メダルが取れる選手の多くも、目標を達成した後のイメージが具体的にあったはずです。さらにいえば、引退後のイメージができていれば、アスリートにとって引退がゴールではなくなり、不安や怖さが軽減されるのだと思います。
自分のためだけに頑張れることには限界があります。私の場合、親やコーチといった私を支えてくれた人、応援してくれた方々など、自身を取り巻くいろんな人が喜んでいる姿をイメージすることで、つらい時期も踏ん張ることができました。
「皆が喜んでくれることが私の喜びだから、そんな自分のために頑張ろう」。こんなふうに思えるようになったことは、勝つことが求められる競技生活においての武器になった。遅咲きながらも諦めることなく、27歳という高い年齢での世界選手権のメダル獲得につながったのだと思います。
「もう少し適当でもいいか」と思えることの必要性
一方で、真逆のことを言うようですが、この病気を経験して、「スケートをこれだけ頑張ってきたのだから、それ以外のことはもう少し適当でもいい」と思えるようにもなりました。
親やコーチなど周りの期待に応えたい一心で、何もかも完璧にこなそうとしていた私ですが、病気で何もかも1人でできなくなったときに、周りにサポートしてくれる人たちがいるということを実感した。「あ、できなければ、周りの力を借りればいいんだ」「頼ってもいいんだ」と思ったら、心が満たされたのか、気持ちがラクになったんです。
マインドセットしてからの生活はがらりと変わりました。最も変わったのが、1日5~8回乗っていた体重計に乗らなくなったことです。あの時期に一生分乗ったので、もういいかなと(笑)。数字よりも、人間としての自分の感覚を大事にしようと思えました。
ご飯を食べると、歩くことしかできなかったのが走れるようになる。腹筋ができるようになるなど、少しずつ体の変化を感じられました。食事に関しても、「たんぱく質をもっととらなければ!」「ビタミンが不足している!」などと足りない栄養素を強制的に摂取する考え方より、「最近、魚を食べてないから食べよう」「疲れたから酸っぱいものが食べたいな」という自分が自然に求める本能に任せて食べるようになった。そうするうちに食べられるものの幅が少しずつ広がり、練習後に「パワーが欲しいからお肉が食べたい!」と思えるようになりました。
食べることは、人が生きる上で必要不可欠なことであり、食欲とは、人間が持つ当たり前の本能です。でも、神経質になり過ぎた私はそれが欠けてしまった。本能のまま生きるとまた太ってしまいますが、そのバランスを少し調整することで、もっとラクに生きることができるんだなあと思えたのでした。
◆フィギュアスケート五輪元日本代表の鈴木明子さんに聞く
(ライター 高島三幸、写真 鈴木愛子)
1985年生まれ。6歳でスケートを始め、15歳で全日本フィギュアスケート選手権4位。18歳で摂食障害を患い、体重48kgから32kgに。2004年復帰、06~07年ユニバーシアード冬季競技大会優勝。09~10年グランプリシリーズ中国杯優勝。バンクーバーオリンピック8位入賞。12年世界フィギュアスケート選手権で日本人最年長27歳で銅メダル獲得。14年ソチオリンピック個人8位。現在プロフィギュアスケーター、振付師として活躍。著書に『ひとつひとつ。少しずつ。』(KADOKAWA)など。
[日経Gooday 2018年2月19日付記事を再構成]
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