「一時は夫婦そろって家事を放棄してしまった」と、子どもが保育園に通っていた時期を振り返る和田幸子タスカジ社長共働き夫婦にとって頭の痛い問題が、家事・育児の分担だ。そんな状況を改善したいと、富士通を飛び出し、起業したのがタスカジの和田幸子社長。手軽に格安で家事代行サービスを利用できるマッチングサイトを運営している。家事の苦手な和田氏が目を付けたのがインターネットを介し、スキルの高い「外の人」と家事をシェアするという意味で「シェアリングエコノミー」とも呼ばれる事業を立ち上げた。個人間取引の新ビジネスと注目を集めている。
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横浜国立大学で経営学を学んでいたころは、キャリアについていろいろな選択肢を思い浮かべていました。在学中に男女雇用機会均等法が改正され、女性がもっと社会へ出て働く時代になるだろうとは思っていましたが、起業なんて、ほんの一握りの勇気ある人たちがすることだと思っていました。
そんなある日、大手メーカーを退職し、50歳代でコンサルティング会社を立ち上げた人の本をたまたま読みました。会社員時代の経験を基にしてこんなふうに起業する方法もあるのだなと、とても新鮮に感じたのを覚えています。
■富士通に入社し、会計システムの開発を担当
1999年に大学を卒業し、システムエンジニア(SE)として富士通に入社しました。担当したのは会計システムの開発です。金融ビッグバンに伴い、企業の情報公開が強く求められるようになり、国際的な会計基準に合わせた法改正が始まった時期でした。
職場はとても忙しく、混沌としながらも、活気にあふれていました。MBA(経営学修士)を取得するために大学院に行こうと思ったのは、開発に携わって数年経ったころのことです。もともと新規事業の立ち上げに興味を持っていて、社内でもそれを担える人材になりたかったのですが、SEという仕事では経営戦略やマーケティング戦略に触れる機会が少なく、もう少し経営者の視点に立った見方ができるようになりたい、と思ったのです。
今でこそ社会人になってから大学院で学び直す人は珍しくありませんが、当時は社内に留学派遣制度があっても、誰もが大学院へ行きたいという感じではなかったように思います。出世したければ、現場で経験を積むほうがいい。そう考える人が大半でした。目の前の課長に昇進するという意味でなら、実際、そのほうが早かったと思います。
それでも会社の規模が大きかったこともあってか、全体ではそれなりの希望者が集まり、1年目は社内選抜を通りませんでした。2度目の枠で選抜を通り、慶応義塾大学大学院経営管理研究科へ。海外で学ぶことも考えましたが、英語がそれほど得意ではなかったことと、「日本語のほうが深く学べる」とアドバイスしてくれる先輩もいたので、国内で学ぶことを選びました。
起業して会社を経営するようになった今、ビジネススクールで学んだことは、とても役に立っています。日々、多くの課題にぶつかりますが、自分が今、直面しているのはどの分野に属する課題なのかが明確にわかるおかげで、対策を立てやすいのです。経営は「レバーの引き方だ」とよくいわれます。1つのレバーだけを強く引くと、ほかの部分に支障が出てしまう。Aのレバーを引いたら、次はBのレバーというように、優れた経営者は複数のレバーを次々とバランスよく引いているのを知りました。
「タスカジ」のスタッフとレシピ交換会に参加する和田幸子社長(右から2人目、東京都港区)MBAを取得する過程で、経営の見取り図を手に入れたことと、実際に困難に直面した経営者がいつ、どんな場面でどのレバーを引いたのかというケーススタディーを重ねたことにより、次々と降りかかってくる困難もどうにかして乗り越えられるという見通しがつくようになったことが、一番大きかったと思います。
■大学院時代に「プチ起業」して失敗
じつは、以前にも少しだけ「起業」を経験したことがあります。ビジネススクールに通っている間、同級生を含む約10人と、カレンダーで情報共有できるツールを開発したのです。当時は富士通に在籍していましたから、社員にはならず、出資しただけ。10人もいたらさぞやすごいことができるだろうと期待したのですが、結果的には失敗してしまいました。
起業は山あり、谷ありです。カレンダーで情報共有するというテーマは、誰か1人の強い思いがあって選んだのではなく、皆で話し合った結果でした。私は当時、起業さえすればテーマはなんでもいいと思っていたのですが、自分が本気で取り組みたいテーマでなければ、その山あり、谷ありを乗り越えるエネルギーがわいてこないのを痛感しました。
スタートアップの人数として、10人は多すぎたのかもしれません。人数が多いと、議論するたびに事業の方向性が変わっていってしまいがちです。定例会ばかり開いて、なかなか前に進まないもどかしさも感じました。そんな経験がありましたから、次に起業をする機会があれば、まずは1人で始めて、軌道に乗ってからメンバーを増やしていこうと思いました。
■「家事」は自分にとって切実なテーマだった
家事代行サービスというテーマを選んだのは、自分にとって家事が切実な問題だったからです。ビジネススクール在学中に現在の夫と結婚し、32歳で第一子を出産。最初から仕事には復帰するつもりでしたから、育児休業中からなるべく夫を家事と育児に巻き込むよう、工夫をしました。
3つ年下の夫とは、結婚前から将来のキャリアについてよく話をしていました。家計の話もしたうえで、「共働きじゃないと将来的に不安」という考えで一致し、家事・育児についても「お互いに我慢しないといけない部分はあるかもしれないけれど、協力してやっていこう」と納得し合っていました。
育休中も毎日、夫には子どもと一緒にお風呂に入ってもらいました。寝かしつけも夫が担当。土日もなるべく一緒に過ごしてもらい、子どもが夫に慣れるよう、環境づくりをしました。これなら大丈夫と感じたところで職場に復帰。当時は短時間勤務を選ぶ人の方が多かったのですが、私はとにかく仕事がしたかったので、フルタイムで復帰する道を選びました。
夫は平日の半分は定時で帰宅し保育園に迎えに行くなど、家事・育児にとても協力的でしたし、職場の人たちもフルタイムで復帰することを歓迎してくれていました。それでも、両立するのにはかなりの体力がいりました。
妊娠中から体調を崩しがちで、ビジネススクールに通っていた期間も含めると実質3年以上、職場から離れていました。その間、ビジネスの環境も変化。社内の組織やメンバーも変わりました。
体力が落ちていたせいか、保育園から子どもが風邪を持ち帰ってくると、すぐにうつってしまう。夫も私も、しばらくは断続的に風邪を引きっぱなしの状態でした。
海外での個人間家事シェアリングを知ったことが起業のきっかけになったあのころは、2人とも「もっと仕事がしたい」と思っているのに、できないストレスを抱えてもんもんとしていました。結果的に2人とも家事をやらなくなってしまいました。洗濯物をたたむ気力もわかず、山のように積み上がった洗濯物から子どもが着替えを取り出しているのを見て、「あと1人、誰か手伝ってくれる人がいたらいいのになあ」と思っていました。
■思いついて約1週間で辞表を提出
家事が得意な人ならば、仕事をしながら、家庭のことも効率的にこなせたのかもしれません。けれど、私はそんなに頑張り屋さんではなかったし、人よりも家事が苦手なほうでした。
自分自身がユーザーとして家事代行サービスを使いたいという気持ちは、ずっとありました。利用するならどこがいいかと、2、3年かけて調べましたが、価格がいっこうに下がっていかない。これはおそらくビジネスモデルの問題だろうと思い、半ば諦めかけていたとき、知人から「海外では家事を手伝いたい人と頼みたい人が個人間で契約する」と聞いて、目からウロコが落ちました。
ちょうど、「シェアリングエコノミー」が日本でも話題になり始めた時期でした。その草分けとなったのが、インターネットを使い、個人の所有する空き部屋を仲介するアメリカの「Airbnb(エアービーアンドビー)」や、空いた自家用車をタクシーのように共有できる「Uber(ウーバー)」などのマッチングサービスです。「これだ!」と頭に閃(ひらめ)き、それから1週間ぐらいで会社に辞表を提出しました。
具体的にはまだ何も動いていませんでした。マーケティング調査もしていなかったのです。それでも、手ごろな価格で家事代行サービスを利用したいというのは、私自身が心から欲していたニーズでしたから、他の人も絶対に欲しいサービスだろうという確信だけはありました。
(ライター 曲沼美恵)
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