マタチッチの破格な音 R・シュトラウス、ワーグナー
クラシックディスク・今月の3点
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮フランス国立管弦楽団
リアネ・シニク(ソプラノ)
1960~80年代の日本で強烈な存在感を放ったマエストロ(巨匠)、マタチッチは1899年に旧オーストリア=ハンガリー帝国支配下のクロアチア・スラボニア王国スシャクで生まれた。現在のクロアチア共和国リエカ市(川崎市の姉妹都市でもある)に当たる。65年にNHKスラブ歌劇団の指揮者の1人として初来日した当時は「ユーゴスラビアの指揮者」で、旧西独のフランクフルト市立劇場オペラ音楽総監督(GMD)の職責にあった。オーストリアやイタリアと地理的に近いクロアチアは旧ハプスブルク文化圏に属し、マタチッチも9歳でウィーン少年合唱団に入り、同地の音楽アカデミーで学んだ。
一方、クロアチアの言語は南スラブ語群に属している。マタチッチの指揮芸術にもドイツ・オーストリア音楽の中枢を担う格式と、重くほの暗く情熱的なスラブ人気質が絶妙に共存し、強い個性を感じさせる。第2次世界大戦中はチトー率いるパルチザンではなく、親ナチスのウスタシャの側に立ち、戦後も反チトーを貫いたため、何度も生命とキャリアの危機に直面したが、並外れた実力のおかげで表舞台へ復帰、85歳まで現役を続けた。
日本ではNHK交響楽団の名誉指揮者として名高く、初来日から引退まで9回共演。16世紀のモンテヴェルディから20世紀の自作まで、幅広いレパートリーに骨太の名演を刻印した。本拠の欧州ではドイツ語圏にとどまらず、チェコやフランス、イタリアなどで多くのオーケストラと共演。72~79年にはモンテカルロ国立歌劇場のGMDも務めた。
マタチッチの録音を積極的に掘り起こしてきた日本のレーベル「Altus(アルトゥス)」はこのほど、フランス国立視聴覚研究所(INA)が所蔵するフランス国立管弦楽団、パリ音楽院管弦楽団とのライブを4点のCDアルバムに編集、発売した。チャイコフスキーとプロコフィエフのロシア音楽、ブルックナーの交響曲第3番、9番と並んで目を引くのがR・シュトラウスの「交響詩『死と変容』」「歌劇『エレクトラ』からエレクトラのモノローグ」「歌劇『サロメ』から7つのヴェールの踊り」と、マタチッチ自身が編曲したワーグナーの「楽劇『神々の黄昏(たそがれ)』からジークフリートのラインへの旅、葬送行進曲、終曲」を収めた1枚(フランス国立管)。初来日と同じ65年の5月4日、パリのシャンゼリゼ劇場の演奏会だ。エレクトラと「黄昏」のブリュンヒルデではウィーン出身のソプラノ、シネクがマタチッチに触発され、体当たりの歌唱を繰り広げる。
9歳年少のヘルベルト・フォン・カラヤンと同じくオペラを得意とし、歌劇場のシェフを歴任したにもかかわらず、マタチッチが日本に現れた時代は常設オペラハウスもなく、演奏会のマエストロのイメージが強かった。フランス国立管とのワーグナー、シュトラウスは緩急自在のドライブ、歌のちょっとした乱れを即座にカバーする現場判断の確かさ、そして何より観客を熱狂へと導くドラマトゥルギー(作劇術)の巧みさにおいて、マタチッチがオペラ指揮でも破格の「巨人」だった実態を雄弁に物語っている。(アルトゥス=販売はキングインターナショナル)
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
ブリギッテ・ファスベンダー(メゾソプラノ)
米国と旧ソ連、「西側」と「東側」がにらみ合っていた冷戦時代、共産圏の欧州は「東欧」とひとくくりにされた。だが、スラブに接点を持つクロアチアと、「ローマ人の国」を語源とするルーマニアでは人の気質も宗教も文化も、まるで違う。
ルーマニア人で第2次世界大戦が終わった直後に一時ベルリン・フィルの常任指揮者を務め、最後はミュンヘン・フィルの芸術監督・首席指揮者を全うしたチェリビダッケ。彼が指揮した「死と変容」をマタチッチ盤と聴き比べると、余りの違いにあぜんとする。演奏時間はチェリビダッケが7分長い30分。この規模の楽曲としては、異例の差だ。地上の火山が一気に噴火へと突き進むマタチッチに対し、チェリビダッケは深海探査艇がじっくり鉱脈を探り、最後に巨大な海底火山にたどり着くような感触。チェリビダッケにとって、構造の解析は「現象としての音楽」を究める基本だった。作業は晩年になるほど入念さを増し、テンポはどんどん、遅くなっていった。
教会の大聖堂を思わせ、構築的なブルックナーの交響曲はお気に入りだった半面、マーラーは「自分自身の持っている可能性をはるかに越えたスケールの大きさを求め……一度始めると、始めはいいけれど、だんだん止められなくなってしまう」(クラウス・ウムバッハ著・斎藤純一郎&カールステン井口俊子訳「異端のマエストロ チェリビダッケ」=音楽之友社より)と切り捨て、「まっぴらごめん」を公言してはばからなかった。
ところがミュンヘンでは、マーラーを2回だけ指揮した。いずれも声楽独唱を伴う「管弦楽つき歌曲(リート)」的な作品で、このCDに収められた1983年6月30日の「亡き児をしのぶ歌」と、今のところ海賊盤しか出回っていない92年4月1日の「大地の歌」。「亡き児」の独唱は当時、バイエルン州立歌劇場を中心に活躍していたメゾのスターで、引退後は演出家に転じたファスベンダー。シューベルトの連作歌曲集「冬の旅」なども得意とし、リートでも一目置かれていた名歌手の解釈は繊細かつ入念で、細部まできっちり詰めるチェリビダッケの行き方と一致する。ねっとりうねるのではなく、静けさとともに歌詞の世界に沈潜するマーラー。チェリビダッケはチェリビダッケだった。(ワーナー)
リッカルド・ムーティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
古くはヴィルヘルム・フルトヴェングラーから(やや)新しくはカラヤン、チェリビダッケらに至るまで物故したアーティストの名を挙げ、「現代はマエストロ不在の時代」と嘆く傾向は絶えず存在するが、すでに確定した業績を褒めるのはたやすく、現在進行形を見極めるには、ある種の「勇気」を伴う。今年1月1日、ウィーン・フィル恒例の「ニューイヤーコンサート」の指揮台に立ったムーティからは往年の力みが美しく消えうせ、真のマエストロの境地に到達した事実を世界に知らしめた。
「最初は楽員の平均年齢を大きく下回る若造だったが、今や全員が私より年少になってしまった」。ムーティ自身が回想するように、1975年、ウィーン・フィルとの初来日はカール・ベームの補佐役で、老マエストロとは47歳の年齢差があった。ナポリ出身の「血気盛んな若獅子」は、ものすごい勢いでウィーン・フィルをドライブするも、空回りの瞬間が散見された。それでも「私は30年前、この街で何が起きたかを知っている。ぜひ、指揮したい作品を携えてきた」といい、広島公演でドヴォルザークの「交響曲第9番『新世界から』」とヴェルディの「歌劇『運命の力』序曲」を演奏するなど、早くから音楽の意義を人間存在の深いところからとらえようとする視点は確かだった。
ミラノ・スカラ座での栄光と挫折など様々な人生経験を経て喜寿(77歳)に差しかかった今、ムーティはズービン・メータと並び、「ウィーン・フィルを最もウィーン・フィルらしい音で鳴らせるマエストロ」と目されている。とりわけブルックナーのように、天啓がオルガンのパイプを通じ地上へ一直線に降りてくるたぐいの音楽では、ムーティの自然で推進力に富むリードがウィーン・フィルから極上の響きを引き出す。第5番以降の傑作群に比べ、やや印象の薄い第2番がみるみる精彩を帯びて名曲中の名曲のように鳴り、聴き手を陶然とさせるのは両者の高い能力、長年の信頼関係すべての成果といえる。
2016年8月16日、ザルツブルク音楽祭期間中の祝祭大劇場でのライブ録音。2枚目に収められたのはモリエールの喜劇に基づく「町人貴族」でドイツのベテラン、ゲルハルト・オピッツがピアノパートに招かれた。シュトラウスと台本作家フーゴー・フォン・ホフマンスタールが歌劇「ナクソス島のアリアドネ」を難産する過程で誕生した、結果的には副産物の管弦楽組曲だ。ムーティはユーモアたっぷりに作品を慈しみ、劇音楽の指揮者ならではの起伏を与えている。(ユニバーサル)
(コンテンツ編集部 池田卓夫)
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