2018/1/23

Back To 1964

「五輪が終わるとすぐ、突貫工事で選手村の改造が始まりました。段差にスロープを取り付けたり、トイレのドアを外してカーテンに替えたり。それを使って選手たちが生活する様子を間近で見て、建築でこんなことができるのかと目を見開かされました」

吉田紗栄子は東京パラでイタリア選手団の通訳を務めた。彼らは「とにかく陽気だった」という

卒業論文には「車いす使用者のための住宅」というテーマを選択。日本選手に依頼して箱根にあった施設の住宅を見学する一方、翌65年のロンドンのパラリンピックに通訳として参加した際には、デンマークに立ち寄って障害者の自宅を訪ねた。

「デンマークでは車いすの人もそうでない人も、同じ家で普通に生活していました。それに対し日本の施設ではお尻やひざを床につけて移動しなければならず、外にもほとんど出られない。あまりのギャップに驚き、建築士になろうと決心しました」

資格をとって住宅の設計を始めたが、日本には前例がない。海外の家を参考にしようにも、日本の家は狭く、車いすの向きを変えるスペースを確保するのも一苦労。加えて、当時の住宅資材は窓のサッシひとつとっても段差ばかり。吉田は業務用の資材で代替したり、昔ながらの間取りにこだわる大工と膝詰めで話したりして、ひとつひとつ乗り越えていった。

そんな日本でも高齢化が進み、ようやくバリアフリーへの関心が高まってきた。「だれでも年をとると体の自由がきかなくなる。それでも施設でなく自宅で暮らしたい。国だってたくさんの施設を作るわけにいかず、在宅でいくしかないでしょう」。吉田が建築の世界に飛び込んで半世紀。「車いすの人や目が不自由な人が暮らしやすい家は高齢者も暮らしやすい。障害者は『水先案内人』だった」と振り返る。

日本の車いすの遅れに商機

東京パラリンピックは、車いすなどの日本の福祉機器が世界に比べて遅れていることを知らしめる効果もあった。

「イギリスのスポーツ用車いすは重さが13キロである。日本の車いすは23キロだ。重さだけでなく、外人選手は体に合わせた車いすを使っていたが、日本は体格などに関係なく、サイズは全員同じもので、1つしかなかった。これは遅れであり、一種の貧困としか言いようがない」(『中村裕伝』)

日進医療器の創業者、松永和男。座っているのは約100年前に旧西ドイツで作られた藤製の車いす。和男自身は障害を負っていなかった(日進医療器提供)

観客としてそこにビジネスチャンスを見いだしたのが、大手車いすメーカー、日進医療器(愛知県北名古屋市)の創業者である松永和男だ。「たまたま東京パラリンピックの試合を見たとき、日本選手が普通の車いすに乗って、懸命に走り回っている姿に感動したようです」と息子で現社長の圭司は話す。

64年春に自動車部品メーカーとして創業したばかりだったが、65年の春には車いすの研究を始めた。工夫を重ねるうちに和男は「車いすの奥深さ」に気づいたという。「1、2機種の既製品では使う人のニーズに応えきれません。障害の種類、住環境、仕事の中身などを見極め、オーダーメードで提供する必要があります」と圭司は父親の思いを代弁する。

座っている姿勢を保てるように背もたれや座面を加工したり、職場の通路に合わせて車いすの幅をスリムにしたり。美容師向けに車いすのまま立ち上がれる機能をつけたこともある。「どんなに難しくても、できることはないか考えるようにしています」と圭司。年間の販売は8万~9万台で、日本で25%程度のシェアを握る。

現在はパラリンピックに出場する選手の車いすも数多く手がける。なかでもチェアスキーは世界的に有名で、2014年のソチ・パラリンピックではチェアスキー競技の全30個のメダルのうち14個で同社の製品が使われた。18年3月の平昌パラリンピックでも「NISSIN」の名前が入ったチェアスキーが活躍するはずだ。

生前の和男は自社の車いす技術が世界の最先端まで進歩したことを自負する一方、日本の社会に欠けているものにも気づいていた。旧西ドイツを旅行したときに「胸に焼き付いた」という光景を、雑誌『日経ビジネス』(1995年12月4日号)に語っている。

「ライン下りを楽しむために船着き場で待っていた時(中略)船を待つ列の前方に、車いすに乗った1人の客がいた。(和男は)どうやって船に乗せるのかと考えていたが、その人の順番が来ると周囲の人が、何も言わずごく当たり前のように船に乗せた」

次の最終回では「20年の東京パラリンピックに何を期待するか」について、インタビューをもとに探る。

(敬称略)

(オリパラ編集長 高橋圭介)