2018/1/23

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こうした厳しい取引関係は中村自身が望んだことでもあった。太陽の家の基本理念は「保護より機会を!」、そして「世に身心(しんしん)障害者はあっても仕事に障害はあり得ない」。中村は84年に57歳で死去するまで、「業種を選び、企業と折衝し、作業内容と入所者の適性を検討し、機械設備を改造し、配置転換をくり返し、より理解のある企業を求める努力を続ける」(『太陽の仲間たちよ』)。

太陽の家は、自立をめざす障害者の施設のモデルケースとなった。今ではオムロン、三菱商事、ホンダ、ソニー、富士通エフサス、デンソーとぞれぞれ共同出資会社を設立し、部品製造やシステム開発を手がけるまでになっている。

町田市がケースワーカーに登用

自立を目指すにしても、太陽の家のような施設には入らず、独力で道を切り開こうとした障害者も多い。そのうちの一人、東京パラリンピックにアーチェリーや車いすバスケットの選手として出場した近藤秀夫(82)の歩みを紹介する。

町田市のケースワーカーとなった近藤秀夫は、車いすの目線から街のバリアフリー化にも取り組んだ

「16歳のとき炭鉱で働いていて脊髄を損傷し、下半身が不自由になりました。頼る家族もなく、施設に入った当初は『これで食べものに困らずにすむ』とうれしかったですね。でも外に出られる手掛かりはなく、『一生ここにいなければならないのか』と気持ちがふさぐようになりました」

そんなときに出合ったのが東京パラリンピックだった。近藤もまた、選手村で外国選手に衝撃を受ける。「『おまえはなぜ施設にいるのか』と尋ねられて、『家族がいないから』と答えても、彼らはよく理解できないというふうでした」。近藤はパラリンピック終了後、それまでいた施設から出ることを決意する。

就職先はタッパーウェアを製造していた米国企業の日本法人。東京パラリンピックで惨敗した日本のバスケットチームの「粘り強さと最後まで試合を捨てなかった『根性』にほれ込み」(『中村裕伝』)同社が何人か雇った日本選手のなかに、近藤も滑り込んだ。

「うれしいを超越して、世界が変わりました」。近藤はそこで、自立のための手掛かりと自信を得る。仕事のかたわら車いすバスケットの練習に打ち込んだところ、「みるみるうちに体がたくましくなるのが分かった」。最大の転機は自動車の免許をとったことで、「自分の行きたいところに自由に行けるようになった」。

理解のあったタッパーウェアの社長が退任したのをきっかけに近藤も会社を辞めたが、その後も貪欲に自立を求め続けた。自分と同じ脊髄損傷の人が使う収尿器を、見よう見まねで作って売り歩いたこともある。時計部品の工場や車いすの販売会社で勤務した後、74年に東京都町田市にケースワーカーとして採用された。当時、全国初の車いすの公務員といわれた。

母子家庭など生活に困っている人の相談に乗る一方、街中の段差をスロープに変えたり公共施設のトイレを整備したりするバリアフリー化に取り組んだ。ケースワーカーは受け持ちの地区を回り、家庭訪問もしなければならない。階段しかない古いアパートも多く、車いすの近藤にできるのか危ぶむ声もあった。

近藤は近所の人に頼んで、面談したい相手に1階まで下りてくるよう伝えてもらうことで、定年まで精力的にケースワーカーの仕事をこなした。「障害者には無理と思われている仕事でも、やってみれば乗り越えられる」と、後に続く人たちにエールを送る。

「障害者は水先案内人だった」

東京パラリンピックから巣立ったのは障害者ばかりではない。日本女子大の3年生としてボランティアの通訳を担った吉田紗栄子(74)は、東京パラの選手村で一生の仕事を見つけた。

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日本の車いすの遅れに商機