1964年の東京パラリンピックが日本に大きな衝撃を与えたとはいえ、それを境に障害者を取り巻く環境がガラリと変わったわけではない。障害者が自立を目指すには必要な収入を得られるよう自らの能力を磨くとともに、それを社会に認めてもらわなければならなかった。東京パラリンピックは長く険しい道の始まりでもあった。
「仕事に障害はあり得ない」
パラリンピックの開催のため奔走し、日本選手団の団長も務めた国立別府病院整形外科医長の中村裕。閉会後の解団式で選手たちに語ったのは、新たな挑戦への覚悟だった。「社会の関心を集めるためのムードづくりは終わりました。これからは慈善にすがるのでなく、身障者が自立できるよう施設を作る必要があります。戦いはこれからです」(『中村裕伝』水上勉、井深大ら編)


中村の念頭には「車いすの外人の明るい姿」と「外人に負けてはいられない」(いずれも『太陽の仲間たちよ』中村裕著)という思いがあった。中村は東京パラリンピックの3年前、スポーツを治療に採り入れようとしたときと同じように、がむしゃらに前に進み始めた。
まず米国の事例にならい、家庭で不要になったものを手直しして販売しようとした。広く提供を呼びかけたところ、本当に使い物にならない廃品ばかりが集まってきて頓挫。「『善意』に期待する方式は日本では成功しない(中略)あくまでも堂々と生産体制をとるべき」(同上)と中村は腹をくくった。
65年10月、社会福祉法人「太陽の家」を大分県別府市に開所。工場や住居を建設するための寄付金を集めつつ、仕事を求めて全国の企業を飛び回った。1年半後には、早川電機工業(現シャープ)からこたつやぐらの製造を請け負うことに成功する。多くの企業が仕事を出し渋るなかで、同社創業者の早川徳次は最も理解があり協力的だったという。
だが仕事となれば、要求は厳しかった。中村は自著『太陽の仲間たちよ』のなかで苦しい胸中をこう書きつづっている。「『もっと賃金アップを』というこちらの考えには、『まず生産性を上げろ、低能率のものは切れ』という答えが返ってくる。(中略)理論的には決してむずかしいことではない。低能率のものを退所させ、能力のあるものだけで仕事をすればいいのである。だが、それはできない」