プロスケーター・鈴木明子さん 母の弱音が変えた関係
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はプロフィギュアスケーターの鈴木明子さんだ。
――愛知の実家は割烹(かっぽう)だそうですね。
「父は料理に真っすぐ向き合う『ザ・職人』という感じの人。勉強熱心で、私が現役時代は遠征から帰ると『何食べた? どんな味付けだった?』とよく聞かれました。母は強くて何でもできる人。習い事も勉強もできて当たり前と育てられました」
――6歳でフィギュアスケートを習い始めました。
「教室を見学に行き、やりたいと親に言いました。練習は毎日、午後6時から8時ごろまで。お店が忙しいと、お客さんが迎えに来てくれることもありました」
「大会でメダルを取るなど結果が出てくると、親の期待も高まります。特に母は厳しかった。中学高校時代は反抗期もあり、正面からぶつかっていました。両親のサポートのおかげで滑れること、当時は分からなかったんですね」
――東北福祉大に進学後、摂食障害の症状が出て実家に戻り療養。大変でしたね。
「スケートはもちろん、食事すらできない。自己嫌悪感や劣等感でいっぱいでした。母は私が心配だから『とにかく食べなさい』。言われるたびに、食べられない私がダメなんだと自分を責めました」
「弱音をはかない母ですが、友達に私の話をしたらしいんです。母が苦しいと言えたことで親子関係が動き出しました。『もう何も言わない。みんなで頑張ろう』という言葉に、こんな私でもいいんだと思えました」
「母は変わりました。娘が失敗しないようにするのではなく、『あなたの人生だから、好きなように生きて』と。私に弱音をもらすようにもなった。病気はつらかったけれど、私たち家族が乗り越えなくてはいけない壁でした」
――試練を乗り越え、2度の五輪出場を果たしました。
「ソチ直前は足の状態が悪く不安だらけ。本番前に母に電話しました。足の痛みでジャンプが跳べないと言うと、母は『スケートで何を伝えたいの? ジャンプだけじゃないでしょ』。その一言で自分を取り戻せました」
「(2月の)平昌五輪では、選手の皆に万全の状態で大舞台で輝いてほしい。緊張も不安も、選ばれた人しか感じられないもの。その一瞬を大切にしてほしいと思います」
――2017年に小学校の同級生と結婚しました。
「親族だけで海外で挙式しました。私は一人娘です。彼とお酒を飲めて父は喜んでいます。結婚してから料理をしているので、いつか両親をもてなしたいです」
「学生時代から母に『お付き合いするときは男性を両目で見なさい。結婚したら片目をつぶってあげなさい』と言われていました。その意味が少し分かった気がします。夫婦は他人同士、すべてが一緒なわけじゃない。思いやりが必要だと感じています」
[日本経済新聞夕刊2018年1月9日付]
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