「障害者を見せ物にするのか」 難産だった東京パラ半世紀前に「東京パラリンピック」があった(2)

今でこそ五輪とパラリンピックは当たり前のように同時に開かれているが、もとはまったくの別物だ。パラリンピックはグットマンが所長を務める施設の名前から「ストーク・マンデビル大会」として、ロンドンで毎年開かれていた。五輪との同時開催は60年のローマ大会が最初。博士が64年の東京にこだわったのは、同時開催を定例化したかったためとみられる。ちなみにパラリンピックという呼称になったのは64年の東京大会からだ。

池田勇人首相にパラ開催を「直訴」

中村が大分県で障害者によるスポーツ競技会を開こうと悪戦苦闘していたころ、東京の福祉関係者にも「パラリンピックを開きたい」というグットマンの意向が届きつつあった。だが「まずは国内大会で実績を積むべきだ」といった意見が大勢で、議論は膠着状態に陥っていた。グットマンの弟子を自任する中村はスポーツ競技会が終わるとすぐに、パラリンピック開催に向けて動き出した。

1964年東京パラリンピックのポスター。実際の選手を撮影した(日本障がい者スポーツ協会提供)
競技場のゲート付近に立てられた装飾塔(日本障がい者スポーツ協会提供)

「日本人は事大主義者である。とくに中央からみて、地方の出来事はほとんど目に入らない。逆にアメリカ、ヨーロッパのこととなると大騒ぎする。私はストーク・マンデビル大会に参加しようと考えた。身障者スポーツは大騒ぎされなければならないのである」(『太陽の仲間たちよ』中村裕著)。実際に中村は、ロンドンで62年7月に開かれたストーク・マンデビル大会に2人の選手を大分県から派遣。パラリンピックに参加した初めての東洋人となった。

中村は政官界にもパラリンピック開催を働きかけた。知己の無かった中村が頼ったのがマスコミだ。朝日新聞社で厚生文化事業団の事務局長をしていた寺田宗義は、こう回想する。

「(62年の5月ごろ、中村が)突然私を訪ねていわく(中略)グットマン博士はかねて我が国に開催を呼びかけているが、厚生省(現厚労省)はじめ関係方面ではいっこうに腰をあげてくれない(中略)こんな始末ではとうてい開催が難しいと思うので(中略)各方面に呼びかけ実現してほしい(中略)東京五輪のあとに東京パラを開催できないとすれば、福祉国家ニッポンの看板は国際的にみて偽りになるであろうと強い口調で訴えたのである」(『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会)

寺田は中村の意を受けて、7月に当時首相だった池田勇人に面会する。これからロンドンのストーク・マンデビル大会に出場する車いすの選手を2人連れていた。

「閣議を終えて駆けつけた故池田勇人首相は(車いすに乗った選手を)チラリとみて驚きの眼を見張った。『これはどうしたことなんか…』と不審の面もちである。私の懸命な説明に大きくうなずいた池田さんは『身体障害者のオリンピックを催すという話は初耳だ、まったくすばらしい、国際親善と、身障者諸君の社会復帰に役立つという企画には政府も協力を惜しまない。1億たらずの金で開けるというのなら、君たちの手で民間の資金が集まらないときには、いつでも言ってこいよ、なあに全額国費で賄ってもよいよ』(中略)この首相のひと言にその瞬間、『しめたっ、これで東京パラは完全にスタートできるぞー』との確信と期待に胸の高鳴りを覚えたのであった」(同上)

頼みは寄付、冷たかった経済界

ロンドンから選手が帰国した8月には、政府も東京パラリンピックの開催支援を確約。翌63年に運営組織となる「国際身体障害者スポーツ大会運営委員会(以下、パラリンピック運営委員会)」が発足した。

日本バーテンダー協会が全国のバーやキャバレーに設置した募金箱(日本障がい者スポーツ協会提供)

次のハードルは資金不足だった。パラリンピック運営委員会の経費は1億2200万円。それに対し国の補助金は都と合わせても3000万円しかなく、ほとんどを寄付に頼るしかなかった。一方、東京五輪の運営経費はインフラ整備や選手強化費を除いても約99億円。同時開催とはいえ、お金の面では雲泥の差があった。

頼みの経済界は冷淡だった。「(パラリンピック運営委員会で手分けして)財界の有力者をしらみつぶしに訪問して協力を求めたが、財界は、ちょうどオリンピックに多額の割り当てをうけ四苦八苦している現状を逆に訴えられ、毎日重い足をひきずり回っている状況であった」(『東京パラリンピック大会報告書』)

選手村の売店の設置でさえ引受先探しに苦労した。「本家のオリンピック村の時のMデパートに引き続き要望したものの冷たく断られ、ようやく最後に西武デパートが赤字覚悟の社会的責任で引き受けてくれた」(パラリンピック運営委員会の委員で東京都民生局保護部監理課長だった町田英一の回想、『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会)

思わぬ援軍もあった。日本バーテンダー協会が募金箱を全国1万軒のバーやキャバレーに置いてくれたのだ。パラリンピック運営委員会の委員でNHK厚生文化事業団事務局長だった堀場平八郎はこんな苦労話を明かす。「(募金箱を置くかわりに)時々顔を出してくれとのことで、毎日3、4軒回ったが、お酒の飲めない自分には苦しい仕事でありました。ホステスさんたちにも募金を頼み、時にはお客のテーブルに座ってパラリンピックのセールスです」(同上)

64年の東京パラリンピックは、こうした草の根の努力の積み重ねで開かれた。日本にとって時期尚早だったかもしれないが、結果的に社会に大きなインパクトを与え、その後の変革につながったともいえる。

(敬称略、次回に続く)

(オリパラ編集長 高橋圭介)

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