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「障害者を見せ物にするのか」 難産だった東京パラ 半世紀前に「東京パラリンピック」があった(2)

2018/1/9

日本選手の結団式はバスを使って開かれた。水上勉らが編んだ『中村裕伝』には「(五輪の熱気に比べて)余りにも寂しい景色」とある(写真は日本障がい者スポーツ協会提供)

 1964年の東京パラリンピックは障害を持った日本選手に大きな衝撃を与えた。外国選手はみなたくましく、明るかった。障害を持たない人に交じって働き、自らの人生を切り開いていた。日本との違いはどこから生じていたのか。パラリンピック開催の経緯を追いながら、当時の社会状況を探ってみたい。

■一般社会との間に「鉄のトビラ」

 時計の針を東京パラリンピックの3年前に戻す。1961年10月22日、大分県で「大分県身体障害者体育大会」が開かれた。レクリエーションではない、障害者による本格的なスポーツ競技会は日本で初めて。まだ東京パラリンピックの開催は決まっておらず、そうした大会の存在さえほとんど知られていなかった。

1960年、英国留学中の中村裕(右)とパラリンピック創始者のルードイッヒ・グットマン博士(太陽の家提供)
1961年10月に開かれた「第1回大分県身体障害者体育大会」。開会式の様子と思われる(太陽の家提供)

 推し進めたのは国立別府病院整形外科医長だった中村裕だ。当時、脊髄損傷の治療法といえば温泉入浴やマッサージで、通常の社会生活に戻るのは難しいとされていた。中村はパラリンピック発祥の地の英国で、スポーツを治療に生かす方法を勉強。自分の病院に戻って実践しようとしたところ、猛烈な批判にさらされた。

 「日本の病院が全てそうであったように、別府の職場や周りの関係者は、患者にスポーツをやらせることにこぞって反対した。『それはむちゃですよ。せっかくよくなりかけたものを悪くするようなものです』と言い、『あなたは医者のくせに、身障者を公衆の前に引きだして、サーカスのような見せ物をやろうというのですか。医者の考えることではないですよ』と、無謀視する者ばかりであった」(『中村裕伝』水上勉、井深大、秋山ちえ子ら編)

 中村に寄せられた批判は、治療の方法にとどまらなかった。「見せ物にするのか」という言葉が象徴するように、当時は「障害は隠しておくべきだ」「障害者はできるだけ表に出ないほうがいい」といった社会通念があった。障害者のための施設は各地に作られていたが、そこで一生を終えるのが当たり前だった。

 それは東京パラリンピックに出場した選手の回想にも現れている。「(従来の考え方は)不具者を倉の中とか、座敷牢(ろう)とかに閉じ込め、他人の目に触れさせなかった」(水泳と卓球の長谷川雅己、『東京パラリンピック大会報告書』国際身体障害者スポーツ大会運営委員会より)

 「昭和30年代(1955~64年)は身障者と一般社会とでは鉄のトビラで仕切られているようなもので民間会社への就職はまず考えられなかった」(車いすバスケットボールの浜本勝行、『戸山サンライズ情報 1985年7月号』より)

 そんな遅れた日本にとって、パラリンピックは突然降ってきた隕石(いんせき)のようなものだった。実は中村は英国に留学中、パラリンピック創始者であるルードイッヒ・グットマン博士から、あるメッセージを預かっていた。「64年の東京五輪の直後、その施設を利用してパラリンピックを開いてほしい」

 グットマン博士はパラリンピックの精神ともいえる有名な言葉を残している。「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」。中村は英国でグットマン博士から障害者のリハビリについて学び、自立をめざす姿勢に心酔していた。

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