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オリパラ
Back To 1964

2018/1/2

Back To 1964

実際に試合で外国選手と対峙した日本選手にとって、その思いはなおさらだった。車いすバスケの選手として東京パラリンピックに出場し、大会後には競技団体である日本車いすバスケットボール連盟の初代会長も務めた浜本勝行はこう述懐する。

「日本からは五十数名の選手が参加しましたがそのほとんどが病院や施設からきた選手であり、皆一様に車椅子を重そうにこぎ、表情は暗く、いかにも俺たちには明日の希望がない、とうったえているかのようでした」

「日本選手も、各競技に頑張りをみせたがとても及ぶものではありません。特にバスケットボールにいたっては、その基本になる車椅子操作に格段の差があり、みじめな思いのみが残った感じでした」(『戸山サンライズ情報 1985年7月号』全国身体障害者総合福祉センター発行)

外国選手のほとんどは仕事に従事

選手村のイタリア選手(日本障がい者スポーツ協会提供)
思わずいすから立ち上がって身ぶりするイスラエル選手(日本障がい者スポーツ協会提供)

背景には、当時の日本の障害者が置かれていた境遇があった。選手団団長の中村は日本選手と比較するため、大会後に外国選手から詳細なアンケートをとった。そこから浮かび上がってきたのは、自立を目指して、健常者に交じって社会生活を送る姿だった。

「外国選手のほとんどは仕事を持っていた。神父、弁護士、会計士、秘書、事務員、電気技師、溶接工、組立工、セールスマン、記者、支配人、機械工、時計屋、本屋、タイピストなど、職種も各分野にわたり、給料も健常人とまったく差がないということだった」

「一方、日本の選手は(出場した)53人のうち仕事を持っているものが、わずか5人(木材屋、時計修理屋、印刷屋)。それも自営業ばかりだった。ほかはすべて自宅か療養所で、だれかに面倒をみてもらっているものばかり。元気がないのは当然だった」(『太陽の仲間たちよ』中村裕著)

外国選手のたくましさと同時にその明るさについても、選手村で過ごした日本選手の多くが書き残している。以下は前掲した浜本の回想だ。

「(選手村で)初めて外国選手と出会ったのが(中略)オランダの選手でした。乗っている車椅子のかっこいいこと、丸太のような腕、キャスター(前輪)を上げて素知らぬ顔して話に興じている姿、いやはやあれが身障者かと見るもの聞くものすべて驚きで電撃的なショックをうけ、しばし彼らの様子をながめておりました。何の話をしているかはわからないが、楽しく談笑しているサークルは今まで私が持っていた身障者のイメージはまったくなく、『足が不自由だから車椅子に乗っているだけさ』……今まで私が思い悩んできたことに、いとも簡単に答えを出してくれたような光景でした」(『戸山サンライズ情報 1985年7月号』)

車いすのままバスの後ろにつかまって…

外国選手のふるまいに驚いたのは、障害者のことを「けがをしないように守らなければならない存在」と考えがちだった健常者も同じだった。選手村の渉外連絡部長を務めた東京都職員の町田英一は次のように記している。

「徐行している村内循環バスの後ろにつかまって車椅子のまま走っている選手にもびっくりさせられたが、インターナショナルクラブでの楽しそうなダンス・パーティー、夜タクシーをつかまえ、車椅子をつみ込ませて渋谷の盛り場に繰り出してゆくグループを見ているとむしろぼう然とさせられたものであった」(『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会編)

開会式で選手宣誓する青野繁夫選手(日本障がい者スポーツ協会提供)

そんな外国選手と交じりながら、日本選手は徐々に目を見開かされていった。水泳と卓球に出場した長谷川雅己の手記からは、大会を境に世の中の景色ががらりと変わった様子がうかがえる。

「私は外国選手が明るく陽気でいられる背景を若干知ったのである。実際、暗い陰さんな影はないのである。それはそれなりの理由があるのだ。身障者に対する社会一般の理解がそこにあるからなのである。彼らは暗くなる理由がないのである。彼らは一個の人格として社会から認められているし、従って一人の人間であるという自覚をもっているのである。この辺が日本と違うところだと思う」

「私は受傷以来5年経ったが、一番コンプレックスを意識しなかったのは選手村の中を車椅子でぶらぶら散歩している時であった。あの中では全く意識しなくとも良かったのであった。そこでは我々が主役なのであった。まさに我々の世界であった。水を得た気持ちであった。あの気持ちを一瞬間だけでも感じることが出来たことは、パラリンピックに参加した最大の喜びであった。私は競技よりむしろその方に意義を感じたものだった」(『東京パラリンピック大会報告書』)

64年の東京五輪は日本の戦後復興を世界にアピールすると同時に、日本国民に自信を与えた。それに対し東京パラリンピックは日本の障害者がいわれなき境遇に置かれ、持てる能力を発揮できずにいることを知らしめた大会だった。その意味では、日本に与えた影響は五輪以上だったといえる。出場した選手とその背後にいる多くの障害者は、パラリンピックを契機に社会と向き合い、自立に向けて歩み始める。

開会式で選手宣誓した青野繁夫は自らの回想を次のような言葉で結んでいる。「私たちは世間の軽い同情を求めるものではない。真剣である。永久にこの大地に2本の足で歩をかまえなくとも、立派に足のかわりの車椅子がある。今後自らをより一層強く持して、将来に期待して、人間として与えられた使命を果たすごとく、鋭意努力したいと、この意義あるパラリンピックに参加して、心にかたく期した次第である」(同上)

(敬称略、次回に続く)

(オリパラ編集長 高橋圭介)