1964年の東京五輪は、日本人ならだれでも知っている。だが同じ年に開かれた東京パラリンピックについてはどうだろう。どんな競技があって、日本の社会にどれほどの影響を及ぼしたのか、思い当たる人は少ないのではないか。選手や大会関係者が書き残した言葉をたどると、当時の日本の障害者が置かれていた厳しい環境が浮かび上がる。自立への歩みは東京パラリンピックから始まった。
日本選手の金メダルは卓球の1個だけ
「いちばん弱いフィリピンには勝てるだろうと思ったバスケットも、皇后陛下(筆者注、香淳皇后)の面前で大敗してしまった。こうなると、『頑張れ』と声援するより、『早く終わってくれ』と祈る気持ちになる。
『これは、ちょっと恥ずかしかったかな』
『しょうがないね、ふだんやっていないものを駆り集めてきたんだから』
『どのくらいおくれているか、はっきりしていいじゃないか』
役員たちはそんなことを話し合っていた」(『太陽の仲間たちよ』中村裕著)
これは64年の東京パラリンピック当時、国立別府病院整形外科医長で日本選手団の団長を務めていた中村裕の回想だ。「どの競技も惨敗ばかりしているのは耐えがたい」と考え、車いすバスケットボールでは最も弱いチームと対戦できるよう大会事務局に掛け合った結果がこれだった。
日本選手の金メダルは卓球の1個のみ。銀メダルと銅メダルもそれぞれ5個、4個。開催国でありながら、メダルの総獲得数は参加21カ国中13位にとどまった。同年に開催された東京五輪で日本選手が16個の金メダルを獲得したのに比べると、パラリンピックは「惨敗」といってよかった。
理由の一つは出場した選手が競技そのものに不慣れだったことだ。アーチェリーに出場した近藤秀夫(82)は竹でできた自分の弓を持参したところ、同僚の選手から恥ずかしいからと隠され、ぶっつけ本番で試合に臨んだ。「見よう見まねで矢を放ったので、どこに飛んだかも分からなかった」と振り返る。
もう一つ、日本と外国を比較して決定的に違っていたのが選手のたくましさ、そして車いすの扱いの巧みさだった。連日のようにパラリンピックを観戦に訪れていた皇太子(現在の天皇陛下)は大会の終了後、役職員をねぎらう席で次のように率直な感想を述べられた。
「今回のパラリンピックを見て、外国の選手は非常に明るく、体力も勝っているように感じました。(中略)外国のリハビリテーションが行きとどいていると思いました」(『東京パラリンピック大会報告書』国際身体障害者スポーツ大会運営委員会編)