「一度国連を離れた経験が力になった」。大学院修了後から始まり、今や事務次長として日本を代表する国連人だが、一筋ではなかった。
職員としてのキャリアはトルコの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で始まった。採用面接では「難民に刃物で脅されたらどうするか」という質問に面食らったが、湾岸戦争や、その後のユーゴ内戦下のサラエボで直面した現実の緊張感は、それに近いものだった。民族紛争で生命の危機にある住民の身柄を巡り、軍人と「ほとんどとっくみあいのケンカをしたこともあった」という。
夢中で過ごした現場を後にして、ニューヨークの本部に異動したのは30代の半ば。国連改革のプロジェクトに携わっていると、官僚組織内の利益の引っ張り合いなど「嫌なところもよく見えた」と振り返る。世界中を転々とする仕事で結婚に縁がなく「自分の人生はどこに向かうのか」と考え始めていた。
そんな時に出会ったのがスウェーデンの外交官だった今の夫だ。彼の帰国に合わせて国連を離れる決意をした。周囲はもったいないと止めたが「同じ組織にずっといるより学ぶことがあるはず」と迷わなかった。
スウェーデンでは、民主化支援などを扱う新興の国際機関に転じた。小さな組織だけに最初から幹部職で、渉外から資金調達まで幅広く担当。国連という看板のない中の仕事で「国際組織のあり方を改めて考えさせられた」。理事だったノーベル平和賞受賞者のアハティサーリ元フィンランド大統領らから、リーダーとしての考え方を教わる機会があったという。
国連復帰を考えたのは2人の娘を育てながら日本で大学教授をしていたころ。離れて10年になろうとしていた。インターネットで見つけた空席ポストに正面から応募して勝ち取った。
国連平和維持活動(PKO)局の部長から国連開発計画(UNDP)などを経て、17年5月、軍縮担当の事務次長に就任。7月に核兵器禁止条約の採択に成功した際は、関係者と抱き合って喜んだ。それでも「まだ成果は出せていない」と話す。人道支援など国連が主導できる分野と比べ、安全保障は加盟国間の政治の場だ。「難しいからこそ挑まないと」。培ってきた力を生かす。
(聞き手は木寺もも子)
[日本経済新聞朝刊2017年12月25日付]