「外様リーダー」がなぜ一番出世 井伊直政の外交術

井伊直政の像
井伊直政の像

徳川家で筆頭の譜代大名に出世した彦根35万石の藩祖、井伊直政(1561~1602)。しかし、もともとは「外様組」だ。15歳の時に家康の小姓としてキャリアをスタートさせた直政は先祖代々の家来ではなかった。地縁を重視した家康だが、地元の三河(愛知県東部)出身者ですらなく、強力なバックがあったわけでもない。三河といえば、現在はトヨタ自動車の本社があるが、同社も生え抜き以外の人材登用が目立ってきた。なぜ「外様リーダー」は一番出世できたのか。

没落寸前の貴公子に家康が着目

『井伊直政』(戎光祥出版)の著者で元彦根城博物館学芸員の野田浩子氏は、直政が抜てきされた理由として(1)井伊家という名門ブランド(2)仕官したタイミング(3)敵を取り込む外交交渉能力――の3つを挙げる。「井伊家は遠江(静岡県西部)で鎌倉時代から続く東海地方のみならず全国有数の名門武家」と野田さんは話す。桶狭間合戦で当主が戦死するなどどんどん衰退していったが、没落寸前の貴公子に着目したのが家康だった。

当時は戦国大名の群雄割拠から天下統一へ向かう時代の境目で、軍事力に加えて高度な政治交渉がより必要になってきていた。野田さんは「大名同士の外交には相応の格式を持った一門衆が必要だった」と指摘する。ところが徳川家では1579年(天正7年)に、盟友関係にあった織田信長の意向で、嫡子の信康(1559~79)が切腹させられるという「松平信康事件」が発生した。家康は後継者というだけではなく、当主代理の任務を果たせる人材まで失ったわけだ。

代わりとして2歳年下の直政が注目されたというのが野田さんの見立てだ。家康自身や「徳川四天王」の本多忠勝、榊原康政ら現役最前線の世代に続く次世代エースの立ち位置だ。「信康が存命していれば直政をそこまで取り立てることはなかったかもしれない」と野田さんは指摘する。

徳川家の外務大臣役に

外交デビューは22歳の時の1582年(天正10年)、関東の大国、北条氏との和平交渉。通常ならばナンバー2の重臣が担当しなければならない任務に抜てきされた。「井伊」の家名は関東でも知られており、直政は成功に導いたといわれる。以後、若年ながらも旧武田家の吸収など難しい案件が次々に与えられ、徳川家の外務大臣役に成長した。

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