異国でも折れない心鍛えたサッカー ビズリーチ社長
ビズリーチの南壮一郎社長(上)
ビズリーチの南壮一郎社長
幼稚園から中1まではカナダのトロント。中学から高校卒業まで浜松市、大学は米国のボストン近郊――。人材サービスのビズリーチ(東京・渋谷)の南壮一郎社長は、幼少時から学校で「マイノリティー」として生きる環境に身を置いてきた。「周囲の文化も仲間の人種も変わり続けるなかで、変わらなかったのはサッカーだけ」と語る南氏。サッカーが心の支えだった、という南氏が、スポーツから学んだ経験を語る。
トロントで7年、浜松で5年、ボストンで4年。学生時代は3カ国で過ごした。
僕は幼稚園から中学校まで、カナダのトロントで過ごしました。帰国して、浜松北高校に進学しましたが、大学は米国のボストン近郊にあるタフツ大学です。いわば、3つの国をまたいだ学生時代でした。
僕は子どものころからいつも「マイノリティー」でした。トロントの小学校では唯一のアジア人だったし、日本に帰っても1980年代の地方都市では帰国子女は目立ちました。大学も東海岸の厳格な私立大で、学生の7~8割は白人でした。
別に悪いわけではありません。むしろ、僕にとって人生における学びになったし、今は親に感謝しています。とはいえ、転校したことがある人ならわかると思いますが、それなりにしんどい。いつも壁にぶつかっていました。知り合いがいるわけでもない。大学時代も含め、いつも語学との戦いでした。
最初から最後まで体育会サッカー部に所属。スポーツだけは万国共通だった。
カナダ・トロントで、サッカーのクラブチームに入ってプレー=南氏提供
変わり続ける環境のなかで、スポーツだけは万国共通でした。これがどれだけ自分にとって救いだったか。僕は小学校ではクラブチーム、中学、高校、大学では学校の体育会に所属して、サッカーを続けました。サッカーが、文化に順応したり、新しい価値観を理解したりするための道具になったし、友人との懸け橋になってくれた。文化や言語はハンディがあってわからなくても、スポーツができたらどの国でも人気者になれるんです。
練習の頻度、監督の考え方といったものは確かに国によって異なります。しかし、そんなの大した違いじゃない。地域の風土や価値観にあわせればいいんです。サッカーがうまいやつは、日本でも米国でもカナダでもうまくて、うまくなるためのプロセスなんて基本的に変わりません。