ラトル芸術監督ベルリン・フィル最後の来日
世界屈指のオーケストラといわれるドイツのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が11月に来日した。首席指揮者・芸術監督のサイモン・ラトル氏(任期2002~18年予定)が率いる最後の来日公演だ。高価なチケットは完売。公演を生で聴けない音楽ファンの方が圧倒的に多い。コンサートに行けない人々にベルリン・フィルはどんな方策を講じてきたか。インターネット配信技術が飛躍的に向上したラトル時代を振り返る。
今年のベルリン・フィルの来日公演は11月23日にミューザ川崎シンフォニーホール(川崎市)、同24~25日にサントリーホール(東京・港)での計3回。本稿の公開日にはもう終わる。3公演とも早々と完売した。特別当日券の厳正な抽選販売は24日のサントリーホール公演のみとのことだ。
■生で聴けない人が大量に発生する来日公演
クラシックのコンサートは生音を聴かせるため、ロックやポップスのように何万人も収容できるスタジアムで音響装置を使って催すわけにはいかない。今回の来日公演ではミューザ川崎が1997席、サントリーホールが2006席なので、3公演で約6000人しかコンサートを聴けなかったことになる。コンサートを生で聴きたくても聴けないファンが大量に発生する日本公演の状況について、ラトル氏は11月22日の記者会見の席で「失敗といえる。だが、すばらしい失敗だ」と複雑な心境を語った。
ベルリン・フィルの来日公演は今回で22回目。初来日は60年前の1957年、ヘルベルト・フォン・カラヤン氏が率いたツアーだった。カラヤン氏は首席指揮者(終身指揮者)だった55~89年の34年間、86年に小澤征爾氏が代役で指揮したのを除き、88年までベルリン・フィルを率いて計10回来日した。続くクラウディオ・アバド氏が首席指揮者・芸術監督だった90~2002年には4回、そしてラトル氏の時代では今回を含め7回の来日を果たした。
特にカラヤン氏の時代はドイツ・グラモフォンから次々に出たLPレコードが売れ、ベルリン・フィルの知名度が日本でも急速に高まり、クラシック音楽ファンを飛躍的に増やした。カラヤン氏が揺るぎない地位を築いたため、アバド氏を経てラトル氏の時代になっても、ベルリン・フィルは日本で人気も権威も知名度も最も高いオーケストラであり続けている。
来日公演の拠点となるのはサントリーホールだ。カラヤン氏が助言して設計にも関わったホールである。ベルリン・フィルのオーケストラ代表でチェリストのクヌート・ヴェーバー氏は同日の記者会見で「サントリーホールでは(本拠地のホールである)ベルリンのフィルハーモニーと同じ気分を味わえる。日本には繰り返しコンサートに来てくれる熱心なファンも多い」と語った。
しかし「熱心なファン」の誰もがベルリン・フィルの来日公演を聴けるわけではない。世界のオーケストラを一つだけ聴こうとした場合、日本ではベルリン・フィルを挙げる人が多いはずだ。レコードやCDでベルリン・フィルを長年聴いてきた音楽ファンが日本全国にいる。コンサート会場でめったに聴ける機会がないので、そうしたファンの多くがベルリン・フィルの来日公演について複雑な感情を抱く。憧れが転じて疎外感を抱く人も多いはずだ。今回のような首都圏だけの公演では、地方に住む人が足を運ぶのは難しい。
安いチケットからあっという間に完売となるため、学生だけでなく勤労者にとってもかなり高価といえる。チケットの価格はミューザ川崎が1枚4万2000円から1万7000円まで。サントリーホールが同4万5000円から1万7000円まで。日本の平均的な所得層にとって家族連れで行くにはとても厳しい値段であり、子供に聴かせるのはまず無理だ。
■嫌いな言葉「クラシックはエリートのための音楽」
通常のクラシック音楽のコンサートは完売になることがほとんどない。小ホールでチケット1枚1000~3000円のリサイタルを開いているアーティストもいる。最近の日本人音楽家の演奏水準は非常に高いため、聴いてかなりの満足感を得られるリサイタルが多い。特に東京や大阪など大都市圏ではすぐにでも聴きに行けるコンサートが毎日いくつもある。
だからこそベルリン・フィルの来日公演は特別のイベントといえる。世界一の人気を誇るオーケストラのコンサートだけに、公正なチケット販売には最善の注意が払われているはずだ。それでも高価だという理由で購入を諦める一般の音楽ファンも多かろう。コンサート会場では音楽ジャーナリストや音楽評論家を称する専門家の人々が一角を占めるのが常だが、そうした常連客はチケットの購入に人一倍の努力を重ねている熱心なファンなのだろう。
ラトル氏は記者会見の席で、そんな質問が出なかったにもかかわらず、「今まで耳にした中で最も嫌いな言葉」を挙げた。それは「クラシック音楽はエリートのためのものであり、特定の選ばれた専門家にしか理解できない」というものだ。「私が二度と聞きたくない言葉だ」と強調した。バーミンガム市交響楽団の首席指揮者だった頃、マーラーの「交響曲第2番『復活』」をはじめヒューマンな音楽作りをしてきた英国人指揮者の発言として重みがある。
ラトル氏の偉業の一つであるマーラーの「交響曲全集」(第1~10番と「大地の歌」などCD14枚組)は、ベルリン・フィルを指揮した盤が「第5番」と「第10番」にとどまり、ほとんどがバーミンガム市響とのレコーディングによる。録音時期が1986~2004年であり、彼がベルリン・フィルの首席指揮者・芸術監督に就任して以降は2年間しかないため無理もない。ただ、ラトル氏が英国の地方オーケストラのバーミンガム市響を指揮し、マーラーの人間臭く感動的な交響曲の数々を演奏・録音したことが世界的評価を高めたのは確かだ。
■ラトル氏が大幅に広げたレパートリー
では「すべての人々のためのクラシック音楽」を信条とするラトル氏はベルリン・フィルでどんな成果を上げてきたのか。「レパートリーを大幅に広げてくれた」とヴェーバー氏は記者会見で語った。これまでベルリン・フィルが取り上げてこなかった珍しい作曲家や楽曲、現代作品などを積極的に指揮してきた。筆者が2004年5月に独フランクフルト・アム・マインのアルテ・オーパーで聴いたラトル氏指揮ベルリン・フィル公演でも、ドボルザークの交響詩「金の紡ぎ車」といったレアな作品を演奏していたのが印象的だった。最近ではミニマルミュージックの大御所として知られる米国の現代作曲家ジョン・アダムズの作品を集中的に演奏・録音した。今回の来日公演でも韓国出身でベルリン在住の現代作曲家・陳銀淑(チン・ウンスク)さんにベルリン・フィルが委嘱した新作を日本初演した。
しかしレパートリーの拡大は表面的な部分にすぎない。音楽教育プログラムや、コンサートに来られない人々への様々な方策を充実させようとしたことこそ、ラトル氏らしいヒューマンな取り組みだったといえる。世界の音楽界の頂点に位置するエリート集団とみられがちなベルリン・フィルの楽団員が、学校や様々な施設に出向いて演奏するアウトリーチ(地域奉仕や現場出張の活動)もその一つ。今回も11月22日、東京の中央区立晴海中学校に弦楽奏者の楽団員が出向き、シューベルトの「弦楽五重奏曲ハ長調」を演奏した。
さらには自宅でコンサートをライブ感覚で楽しんでもらう音楽映像配信サービス「デジタル・コンサートホール」を始めたのも大きな成果だ。これはベルリン・フィルの公演を生で聴けない人々に対し、ライブをそのままユーザーの端末に送り届けるサービス事業だ。ネット配信技術が向上した時代の申し子といえるサービスで、ベルリン・フィルが自前で事業を運営している。
■音楽配信サービス事業でコンサートを届ける
配信サービス事業を担うベルリン・フィル・メディア代表で同楽団ソロ・チェリストのオラフ・マニンガー氏は「カラヤンの頃のスタジオ録音に比べ、ライブストリーミングははるかに臨場感があり、顧客の満足度も高い」と豪語する。2018年1月からはパナソニックの高精細映像技術「4K」を利用した新たな配信サービスも始める。当初は公演の録画を流すが、同5月からはライブも本格的に配信し始める。
こうした配信サービスと連動し、高音質CDやブルーレイ・ディスクなどをセットにした豪華なパッケージ商品も出してきた。自主レーベル「ベルリン・フィル・レコーディングス」の録音・録画商品だ。日本ではキングインターナショナル(東京・文京)と連携し、シベリウスの交響曲全集やジョン・アダムズの作品集などを販売している。1万~3万円台もするパッケージ商品もあるが、マニンガー氏は「充実した内容を考えれば決して高くない」と語る。1枚1000円程度のCDがあり、ユーチューブでの音楽視聴も盛んな現代において、こうした価格設定が高いかどうかは議論が分かれよう。
かつてカラヤン氏の頃はスタジオや教会でじっくり時間をかけてレコーディングする事例が多かった。ライブとはまた異なるレコード芸術が花開いた時代だった。しかし配信サービスの充実を背景に、今はライブレコーディングが中心となっている。ライブを重視しそれを忠実に再現しようという「写実主義」である限り、配信サービスやCDが実際の生演奏を越えることはないと思われる。そうなるとやはり実際のコンサートに足を運べない人は報われない。この点に矛盾があるといえる。
パソコンを開くと、「デジタル・コンサートホール」のフロント画面では「来日公演がスタート。同じプログラムをDCH(デジタル・コンサートホール)で楽しもう」と告知していた。2018年後半からはロシア出身のキリル・ペトレンコ氏が首席指揮者・芸術監督に就く。ドイツ色が薄まり、日本人演奏家も加わり、国際的エリート集団のイメージも漂い始めたオーケストラはどこへ向かうのか。1枚1000円台の廉価盤になった「カラヤン指揮ベルリン・フィル」のCDを聴き直してみる。
■サイモン・ラトル氏、来日記者会見で語る
11月22日、都内で開かれたベルリン・フィル来日記者会見でのラトル氏の発言は以下の通り。
――今回の来日公演についての感想は。
「ベルリン・フィルと日本の関係は特別なもので、聴衆の温かさと熱心さは格別だ。再び日本に来ることができてうれしい。私がベルリン・フィルと来日するのは今回で最後だが、まもなくまた別の形で日本を訪れることになっている。今回の選曲は、聴いて喜びを感じられる作品だ」
「毎回、何か新しいものを提供できないかと考える。ベルリンでの最後の2年は、様々な作曲家に15の新曲、とりわけ小品を委嘱した。その中から今回の公演ではチン・ウンスクさんという存命の韓国の偉大な作曲家の美しい作品を選んだ。彼女はベルリンに長く住み、ほとんどベルリンの作曲家といっていい。ベルリン・フィルは彼女の曲を何曲も演奏した経験があり、互いに分かり合っている。彼女の作品を初めて日本で披露するのが楽しみだ」
「また、今回はベルリン・フィルを指揮する立場にあるうちに何をいちばん聴きたいかを考えた。そこでやはりブラームスの『交響曲第4番』が真っ先に浮かんだ。これは自分のキャリアを通して身近に感じている曲だ」
「さらに浮かんだのがラフマニノフの『交響曲第3番』。大変な名曲ながら、我々を含め世界のオーケストラもあまり演奏していない。さらにストラヴィンスキーの『ペトルーシュカ』。これは演奏されることが極めてまれな作品だ。同じストラヴィンスキーでも『火の鳥』や『春の祭典』はベルリン・フィルでも過去20~30年にわたり何度も演奏されているが、『ペトルーシュカ』はほとんどなかった。今回の選曲は自分へのご褒美というだけでなく、このオーケストラの幅広い音色を聴いてもらえる機会でもあると思う」
――ベルリン・フィルでの首席指揮者・芸術監督としてのこれまでの成果は何か。
「私がこのオーケストラの一員になった理由は(実際には楽団が私を選任したわけだが)、オーケストラの可能性をあらゆる方面に広げるためだったと思う。レパートリーはモンテヴェルディから昨日書かれた現代作品にまで及ぶ。そしてもう一つは、このオーケストラがコミュニティーの一員になること、これも大きな目標の一つだった」
「ベルリン・フィルにはご存じの通り、偉大な伝統がある。ただ、伝統がありながらも将来を見据えている点が強みだ。就任した16年前を考えると、現代の最も偉大な作曲家の一人、ジョン・アダムズの作品を1年間演奏し、録音・録画することは想像もつかなかった。だが今では彼の作品のような現代の音楽を日々、普通に演奏するようになっている」
「ベルリン・フィルはレコード業界に問題が生じていると知ると、自分たちの音楽のメッセージを世界に広めるために音楽配信サービス『デジタル・コンサートホール』を立ち上げた。これは世界でも有数のサイトの一つになっている。問題を乗り越えるためなら、自分たちでレーベルをつくってしまう。このエネルギーはもともとオーケストラにあったもので、原動力にもなっている。このような意欲やアイデアを私も大変誇りに思っているが、決して私の発想ではなく、すべて楽団員から生まれたものだ。こういうところこそがベルリン・フィルの性格だと思う」
「生涯二度と聞きたくない言葉がある。それは『クラシック音楽はエリート層のためのものだ』ということだ。『クラシック音楽は特定の選ばれた人にしか分からない芸術だ』と言う人もいるが、それは大きな間違いだし、音楽にとっても悲劇だと思う。クラシック音楽はすべての人たちのためにあるもので、それは楽団員も共有している考えだ」
「楽団員は教育プログラムにも積極的に関わってくれた。我々の活動によって多くの若い人たち、そして多くのそれほど若くない人たちにも影響を与えられたことを願う。音楽をウイルスのように多くの人たちに感染させ、それが治ることがないよう願っている」
――残りの任期で何をしたいか。
「残る時間でしたいことは、シンプルでもあり、大変難しいことでもある。それはただ一つ、大空にはばたいていくような音楽をつくっていきたい。このオーケストラに理性的な演奏、落ち着いた演奏を期待している人はいない。触ると熱く感じる、近づきすぎるとやけどをするような、熱い演奏をする集団だ。音楽づくりの品質には格別なものがあり、楽団員には仕事だから演奏しているという人は一人もいない。音楽を演奏できなければ生きていけない、といった思いで弾いている。そんな特別なオーケストラだ」
――ベルリン・フィルは人気があってコンサートを聴けないファンが大勢いる。今回も会場に入れない日本のファンにメッセージを。
「日本の聴衆は世界の中でも最もすばらしいと思うし、その人たちの前で演奏できるのは大変光栄だ。日本の人たちの集中力の高さ、感動の深さははっきり私たちも感じているし、聴衆の感情というのは私たちに伝わっている。できるだけ多くの方に演奏を聴いてもらいたいという気持ちがあるが、サッカースタジアムのような大会場での演奏は避けたい」
「そこで『デジタル・コンサートホール』を立ち上げたり、映画館で演奏を上映したり、といった取り組みを進めている。こういう形はどんどん進化していくと思う。ただ、すばらしい音楽とは、人生における多くのものと同じように、ライブでの体験を上回るものはない。技術の進化とともに新しい方法でより多くの人たちに音楽を届けたい。しかし究極的には日本のように音楽好きな人が大勢いるところでは、聴きたい人すべてに届けることはできないだろう。大変残念なことだし、失敗だが、同時にこれはなんてすばらしい失敗であるかとも思う」
「我々は香港や台湾でもコンサートをしてきた。会場には2000人しか入らないが、台湾では会場の外に4万人も待機し音楽を聴いてくれた。非常に心動かされる経験で、『デジタル・コンサートホール』などの取り組みを重視するきっかけにもなった。今後も聴衆に私たちから近寄っていく活動を重視していくことになるだろう」
(映像報道部シニア・エディター池上輝彦、槍田真希子)
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