ペトレンコとチェルニアコフが極める ベルクの官能美
クラシックディスク・今月の3点
ディミトリ・チェルニアコフ(演出)、キリル・ペトレンコ(指揮)、バイエルン国立管弦楽団、マルリス・ペーターゼン(ソプラノ=ルル)、ボー・スコウフス(バリトン=シェーン博士、切り裂きジャック)、ダニエラ・シンドラム(メゾソプラノ=ゲシュヴィッツ伯爵令嬢)、ライナー・トロースト(テノール=画家)ほか
2017年9月17日、東京文化会館大ホール。18年にサイモン・ラトルの後を継ぎ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者・芸術監督に就くことが決まった「旬」のアーティストにもかかわらず、「幻のマエストロ」であり続けたキリル・ペトレンコ(1972年生まれ)が日本で初めてのライブに臨んだ。音楽総監督(GMD)を務める独バイエルン国立歌劇場のオーケストラ(バイエルン国立管弦楽団)、ピアノのイゴール・レヴィットと共演した都民劇場主催の演奏会。ペトレンコはラフマニノフ、マーラーのいずれにおいても入念なリハーサルを積んで細部まで磨き抜き、本番の一回性を最大限に生かした緩急自在の棒さばきで聴衆を圧倒した。
9月21、25、28日には東京・渋谷のNHKホールで「タンホイザー」(ロメオ・カステルッチ演出)を指揮。巨大会場のオペラ全曲上演であっても力業で押し切らず、いくつもに重なる音楽の線(声部)を丁寧に描き出し、声量よりは繊細な表現に秀でた歌手たちとともに、新時代のワーグナー像を打ち出した。
分厚いスコア(総譜)の中で複雑にからむ声部を一つ一つ浮き上がらせ、音楽に豊かな色彩と立体感を与えるペトレンコの手腕は、アルバン・ベルク(1885~1935年)が未完で残した20世紀オペラの傑作「ルル」でも、理想的な形で発揮された。
「ルル」はフランク・ヴェーデキントの2つの戯曲、「地霊」と「パンドラの箱」を下敷きにベルク自身が3幕物オペラの台本をまとめながら作曲を進めたが、第3幕1場まで完成した時点で急死した。ウィーンの作曲家、フリードリヒ・チェルハによる補筆で全3幕が整ったのは、ベルクの死後44年を経た79年。ペトレンコもチェルハ補筆版を採用している。
15年5月にミュンヘンの本拠(ナツィオナールテアーター)で収録された新演出は、ロシア人演出家ディミトリ・チェルニアコフ(70年生まれ)によるもの。舞台全体を覆う「枠」が閉塞社会を強調するなか、題名役ペーターゼンや性格俳優の域に達したスコウフスら、それぞれの役を長く歌い込んできたキャストの個性をフルに引き出し、生々しい官能性を漂わせながら、愛と死の極限を描く。
日本ではなかなかお目にかかれない、情欲もあらわな肉食系の舞台。ディスクは一般DVD、ブルーレイの2種出ているが、できれば細部まで鮮明なブルーレイで鑑賞したい。日本語字幕付き。(独ベルエアー=輸入元はナクソス・ジャパン)
カルテット・アロド、マリアンヌ・クレバッサ(メゾソプラノ)
間もなく初来日する若い弦楽四重奏団のデビュー盤。ワーナーグループの「エラート」レーベルと結んだ長期契約の第1作に当たる。パリ音楽院在学中だったジョルダン・ヴィクトリア(ヴァイオリン)、アレクサンドル・ヴ(同)、コランタン・アパレイー(ヴィオラ)、サミー・ラシド(チェロ)の4人がメンデルスゾーンの「弦楽四奏曲第2番(作品13)」を弾こうと集まり、カルテットを結成した。わずか3年後、第1位をめったに出さない全ドイツ放送網(ARD)音楽コンクール(日本での通称はミュンヘン国際音楽コンクール)弦楽四重奏部門で優勝、エベーヌやアルテミスに続くフランス期待のカルテットの地位に躍り出た。
ドイツの作曲家メンデルスゾーンはユダヤ系だったため、第2次世界大戦中のナチス政権が「取るに足らない小作曲家」のレッテルを貼り、長く過小評価と学術研究の遅れの憂き目に遭ってきた。実際にはJ・S・バッハの「マタイ受難曲」の復活演奏を敢行し、古典を繰り返し取りあげるという現代の演奏慣行を確立した偉大な指揮者・プロデューサーである一方、「エリア」「聖パウロ」など大規模な宗教音楽も残した大作曲家。21世紀に入る前後から、クリストファー・ホグウッドらによる楽譜校訂の作業などを通じ、温和な表情の裏に潜む激情のほとばしりも素直に打ち出す演奏が増えた。
カルテット・アロドの演奏も激しい、激しい、激しい……! もちろんクラシック音楽の則(のり)は超えず品性も確かだが、思い出の曲である作品13だけでなく、他の収録曲でもすべて、人間の魂に根源から揺さぶりをかけるような激奏を繰り広げる。冷静に聴けるはずのCDでもこうだから、くしくも赤穂浪士の討ち入りの日に当たる12月14日、東京・銀座の王子ホールの日本デビュー公演での作品13がどのように火を噴くのか、想像もつかない。(ワーナー)
ジェイムズ・エーネス(ヴァイオリン)、アンドルー・マンゼ(指揮)、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団
76年にマニトバ州で生まれたカナダのヴァイオリニスト、ジェイムズ・エーネスと最初に会ったのは20年以上も前。パガニーニの超絶技巧曲「無伴奏ヴァイオリンのための24の奇想曲」を汗ひとつかかず涼しげに、しかも豊かな気品と鮮やかな音色を伴って弾ききる10代の「天才少年」とのインタビューに緊張していた記者の前に現れたのは、物静かで礼儀正しく、過去の作曲家や歴代の恩師への尊敬を欠かさない長身の好青年だった。当時、ニューヨークのジュリアード音楽院で学ぶヴァイオリニストの多くが技巧を誇示してバリバリと弾きこなし、アクの強い解釈、派手なポスターで売り出していた中では、明らかに異色の存在といえた。
以後も何度か話す機会があり、15年1月のNHK交響楽団定期演奏会(ジャナンドレア・ノセダ指揮)のプロコフィエフ「ヴァイオリン協奏曲第2番」で素晴らしいソロを披露した後半には偶然、聴衆として隣の席に現れた。最近ではストラディバリウスなどの名器を特集したNHKの番組にゲスト出演も果たし、地味な実力派ながら日本での知名度を高めつつあるが、デビューから今日まで、エーネスに一貫する姿勢は「作品の下に自分を置く」との謙虚さだろう。本来、豊穣(ほうじょう)なヴィブラートも駆使できる掛け値なしのヴィルトゥオーゾ(名手)だが、バッハやベートーヴェンなどバロックから古典派にかけての作品ではヴィブラートを抑えた厳格な様式を守り、引き締まった骨格を明らかにしていく。
昨年9~10月、40歳の節目に満を持して録音したベートーヴェンの協奏曲では、ピリオド(作曲当時の仕様の)楽器のヴァイオリンの名手として知られたアンドルー・マンゼを指揮者に迎え、リヴァプールのオーケストラの質実なアンサンブルと心ゆくまで、きりっと美しい旋律の再現に没頭する。どこまでも伸びやかな歌心は技の切れとともに、エーネス最大の長所である。併録の2つの「ロマンス」、シューベルトの「ロンド」ともども、名手の美音をとことん味わえる名盤だ。(英オニックス=輸入元は東京エムプラス)
(コンテンツ編集部 池田卓夫)
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