俳優・永島敏行さん 父との映画館通い、役者の下地に
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は俳優の永島敏行さんだ。
――実家は千葉市ですね。
「父は元競輪選手で、千葉でレースがあるときの定宿が母の実家の旅館でした。その縁で結婚し、自分たちもJR蘇我駅近くの商家を買って旅館を始めました。時代はちょうど高度成長期。旅館は工場関係者や行商の人らで繁盛していました。朝5時には起きて食事や弁当の用意をし、それが終わると掃除に洗濯。2人とも寝る時間を削って働いてましたね」
――どんな子供でしたか。
「当時は自然がいっぱい残っていました。遠浅の東京湾に行けば、砂浜にアサリがわいている。川にはハゼやウナギが泳いでいるし、少し足を延ばせば里山がある。もう遊び放題でした。中学校でも、高校でも野球部です。おやじからは『体に悪いから勉強はするな』と言われ、それを守っていると成績がどんどん下がった。少しぐらい勉強を、と部屋にこもると『早く寝ろ』と言ってくる。旅館を継いでほしいと思っていたのでしょう。ああしろ、こうしろと言われたことはなかったです」
――どうして映画に。
「大学でも野球漬けだったある日、アパートにおやじから突然電話がかかってきた。『試しに送ったら書類選考に通った。明日、東映に行け』。そんなむちゃな。学芸会にすら出たことないのに、演技なんてできるはずない。ところが最終選考に通り、初めて映画に出ました。評判は、さんざんでした。やっぱり無理だよなと思っていたら、また無断で『サード』に応募していました。そこで主役に起用されたのがきっかけです」
「小学校に上がる前、おやじがよく映画に連れて行ってくれました。旅館の仕事は昼を過ぎると少し暇になる。その時間を利用して映画館に通いました。演技に必要なのは役柄に感情を込めることだと、この世界に入って教えられました。映画を見て泣き、笑う中で、自然と感情移入の訓練をしていたのでしょう。子供のころの経験が役者人生の下地になりました」
――今は俳優業のかたわら、農業関連のビジネスも手掛けていますね。
「結婚して娘ができて。自然の中でのびのびと育てたいと考えていたころ、秋田県に住む大学野球部の友人が『映画祭を手伝ってくれ』と言ってきました。それをきっかけに米作りの手伝いを始めました。娘もどろんこになって、歓声を上げました」
「毎週金曜日、東京駅地下の行幸通りで産直マルシェ『青空市場』を開催しています。役者は観客に作者のメッセージを伝えるのが仕事。青空市場では生産者の言葉を消費者に伝えています。仲介役という点では変わりません」
[日本経済新聞夕刊2017年10月31日付]
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