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64年五輪、殺気立っていた選手村厨房 量も味も追求 シェフ務めた大和丈司さん、目玉焼きもオーダーメードで

2017/11/14 日本経済新聞 夕刊

1964年の東京五輪で厨房に立つ大和丈司さん(右)

 開幕まで残り千日を切った2020年東京五輪を、特別な思いで心待ちにするシェフがいる。1964年東京五輪で、選手村のシェフを務めた横浜市港北区の大和丈司さん(82)。今も大切に保管する当時のレシピ本は、自身が五輪に関わった証しだ。「『料理人も金メダル』を目指してほしい」。大和さんは、20年東京大会のおもてなしを担う後輩シェフたちにエールを送る。

1964年の東京五輪のメニュー本や写真を眺める大和さん(横浜市港北区)

 「五輪の選手村でシェフとして働いてみないか」。横浜市のフランス料理店で働いていた20代後半。加盟していた全日本司厨士協会の会長から、こんな依頼を受け、五輪に携わることになった。

 選手村には西洋向けの「桜食堂」、アジア・中東向けの「富士食堂」、女子選手用の「女子食堂」があり、大和さんが配属されたのは桜食堂だった。

 横浜市の妻の実家から始発列車に乗り、夜遅くに帰宅。閉幕まで休暇もなく毎日選手村に通い続けたという。

 当時、約300人のシェフが、大会に参加した選手と役員約5千人の胃袋をまかなった。大和さんが担当したカフェテリア方式の食堂では30人ほどのシェフがひっきりなしに訪れる選手に対応。「もう無いぞ!」。厨房には大きな声が飛び交った。

 目玉焼きの焼き方でも、半熟なのか表と裏両方を焼くのか、選手から細かい注文を受けた。「国によって調理習慣も違う。おいしいと思ってもらえるように『料理人も金メダル』を目指した」と話す。

 後に帝国ホテル料理長となった富士食堂料理長の故村上信夫さんも厨房に立った姿が記憶に残っている。シェフを集め「一生懸命みんなでやろう」と声を掛けていたという。「あれほど大量の料理を一度に作ったことはなかった」と大和さんは振り返る。

1964年の東京五輪で日本選手と写真に納まる大和さん(左)

 大和さんは五輪後、大手百貨店グループのレストラン会社で調理指導部長などを歴任。「一度に10人分作れたら、次は100人、千人でも作れると思えるようになった。大勢のコックを指導できたのは五輪の経験があったからこそ」と話す。

 日本で最初の夏季五輪から半世紀以上。「オリンピック・メニュ―」と書かれたB5サイズのレシピ本が今も、自宅にある。「鮭のボイル オランダ風ソース」「スウェデン風 ミート・ボール 洋麺添え」。当時のメニューを今に伝える貴重な宝物だ。「五輪という舞台で働いたことが誇らしい」との思いがある。

 大和さんは20年の東京五輪決定の知らせに、涙を流した。「生きている間に再び日本で五輪が開かれると思っていなかった」という。

 東京五輪では、選手村で約200万食の食事の提供が見込まれる。大会組織委員会は18年3月にも「飲食提供に係る基本戦略」を正式に公開する予定で、食事提供の準備が本格化する。大和さんは「ただ料理を作るだけでなく、おもてなしの気持ちを大切にし、しっかり勉強して臨んでほしい」と期待を込める。

[日本経済新聞夕刊2017年10月30日付]

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