乳がん患者の「きれい」を支援 ある美容師の思い
がんの治療を続けながら仕事をする人、日常生活を送る人が増えてきた。社会の意識も変わり、企業が自社社員のために治療中の就労システムを作ったり、顧客のために保険商品や日常生活のサポートサービスを拡充させるなどの動きが広がっている。そんな中、町にあるごく普通の美容院も乳がん患者をサポートする活動を始めている。10月の乳がん月間に合わせ、その取り組みを紹介する。
乳がん患者が普通に通える美容院を目指して
ウィッグ(かつら)をかぶった乳がん患者の髪を美容師がセットすると、患者は鏡に映る姿を見て「気分が若返る」「うれしい!」と声を弾ませた。脱毛の悲しさ、不安を口にしていた患者たちの目が輝き、明るい笑い声が上がる――。
東京・築地で美容院を経営する美容師の上野修平さんは、聖路加国際病院ブレストセンター(東京・中央区)で、乳がん患者を対象に髪や爪の変化[注1]とケア方法を教え、美容に関する悩みに答えるボランティア活動を行っている。
「ビューティ・リング」と名付けられたこの活動は、2013年から毎月1回行われている。3回1セットで、1回目は上野さんと美容師の工藤真知子さん、ネイリストの菅原ひとみさんによるヘア・ネイルケア、2回目は美容専門家によるメークのレクチャー、3回目は看護師さんと参加者のミーティングだ。
上野さんが経営する美容院「Salon Omm」では、抗がん剤投与の影響で脱毛に悩む患者が安心して通える美容院の環境づくりとケアも実現している。
抗がん剤の種類は多く、副作用も様々だが、種類によっては脱毛する可能性が高く、患者は外見的なつらさも体験しなくてはならない。そこで、「Salon Omm」ではもともと着物の着付け用に確保していたスペースをがん患者用の個室として使えるようにした。2台並んだシャンプー台の間にも目隠しのロールカーテンを付けているため、患者はほかのお客の目を気にすることなくケアを受けることができる。
上野さんが乳がん患者のサポート活動を始めたのは、聖路加国際病院の乳腺外科部長・ブレストセンター長の山内英子さんが、美容院のお客さんとして通っていることがきっかけだ。山内さんは、脱毛した患者さんたちに単にウィッグをかぶってもらうだけでなく、ウィッグ使用前後も含めた中長期的な美容面のサポートができないかと、上野さんに相談した。
上野さんは「プロの美容師がアドバイスやサポートをすることで、抗がん剤治療による脱毛を経験した方々にも、きれいで、かわいく、カッコ良く、元気に暮らしてほしい」と考えて山内さんに賛同した。まず、乳がんと治療について多くの書籍を読み、山内さんや看護師さんから学んだ後、ネイリストの菅原さんらと、髪や爪に現れる変化とケア方法をまとめたテキストを作成。ビューティ・リングでの講義に使用している。
さらに、上野さんの活動を知って美容院を訪れる乳がん患者の悩みを解決すべく、プロの技術を駆使して、病気と闘う患者さんたちを美容面から支えている。
「ウィッグを脱ぐこと」を勧めるワケ
来店する患者には、抗がん剤投与が終了した後に、徐々に伸びてきた毛のスタイリングに悩む人が一番多いという。
「これまで300人ぐらいの乳がん患者さんのケアをしてきました。抗がん剤による脱毛後に生えてくる毛はクセが強いことが多く、生え方はまばら。患者さんの年齢的に白髪が混じっていることも多いため、上手にカットして、スタイリングのコツを教えてあげないと、自分でセットすることは難しいのです」と上野さん。乳がん患者さんのボリュームゾーンである40代は、病気がなくても髪質が変化する年代。個々人の髪の状態と折り合いをつけながら、新しいヘアスタイルを提案している。
ウィッグ業者は、頭部全体の毛が生えそろうまではウィッグをかぶり続けたほうがよいとアドバイスするケースが多いようだ。しかし上野さんは、「ウィッグはどんなに精巧にできていても人工物。自分の髪が生えてきたら、できるだけ早くウィッグを脱ぐように勧めています」と話す。それは、つらい脱毛状態を経て、やっと髪が生えてきた患者の喜びの深さを知ったことも影響している。
ある患者が、ベリーショートのデザインができる程度に髪が伸びてきたので、「ウィッグを脱ぎましょう!」と勧めた。耳の周りの毛をカットしていたとき、彼女の目から涙がポロポロとこぼれ落ちたことに気づいた上野さんが慌ててどうしたのかと尋ねると、彼女は「ハサミの音が懐かしくて……。やっとこの状態まで来ることができた。日常生活に戻ってこられたと思ったんです」と涙声で答えたという。
[注1]抗がん剤を投与したがん患者には髪や爪などに様々な変化が起こることがある。詳細は記事後半で解説する。
自分の髪を切るハサミの音は、つらく長い闘病を経験した彼女には、回復の象徴に聞こえたのだろう。「この言葉はうれしかったですね」と上野さんは語る。
彼女以外にも、自分の髪を切ることができたという事実に感動して涙を流すお客さんは多いという。自らの髪をおしゃれにセットできるうれしさは、患者たちに病気と闘うエネルギーを与えることになるだろう。上野さんができるだけ早くウィッグを脱ぐことを勧めている理由には、このような実体験の積み重ねがあるのだ。
「がん患者さんが普通に通える美容院を増やしたい」
上野さんは、自らの美容院だけではなく、多くの美容院でがん患者のサポートができるように、2016年から美容師向けの講習を始めている。ビューティ・リングのテキストを基に教材を作り、ケアする側が知っておくべき事項、医療用ウィッグのカットの実演などを教えている。
がん患者が増え続けている今日、抗がん剤の影響で脱毛した患者に対応できる美容師が増えれば、患者のQOL(生活の質)向上はもちろんのこと、美容師の活動の可能性も広がると思っているからだ。
月1回の講習会には、これまで約100人の美容師が参加してきた。今後は、内容をブラッシュアップし、活動を組織化して、メディカル・スタイリストといった称号を付けて免状を出すことも考えている。「美容院の入り口に称号を記したシールを貼るなどして、抗がん剤で脱毛した人のヘアケアに対応できる美容師がいる店、と知ってもらえれば、悩める患者さんたちの受け皿になれるのではないか」と、上野さんは展望を語る。
「髪が抜ける前にショートヘアにするのがお勧め」
上野さんに、抗がん剤治療を受ける患者へのアドバイスの一端を聞いた。「髪が抜けてしまう前にショートヘアにすることを勧めています。枕や風呂の排水溝に抜け毛がたまるので、長い毛だとボリュームが多く、患者さんのショックが大きいからです」(上野さん)。さらに、ショートヘアに慣れていると、新しい毛が生えてきたときに早くウィッグを脱ぐことができる。長く伸びるまで待つと、2年、3年とウィッグをかぶり続けなくてはならないからだ。
また、抗がん剤の投与中に発毛剤、育毛剤を使うのはNGだ。「発毛剤、育毛剤は毛を作る細胞である毛母細胞の血行を促進するため、抗がん剤の影響を強く受けてしまうといわれています」
上野さんらは、脱毛中にかぶる手作りウィッグの作り方も教えている。帽子やターバンに100円均一ショップで販売している前髪ウィッグをマジックテープで付けたものなどだ。
医療用ウィッグ[注2]は高価だが、脱毛後の脆弱な頭皮を保護する作りで安心して使え、急な慶弔時のためにも1個は持っていたほうがいい。しかし、日常生活に3000円前後のおしゃれ用ウィッグや、100円ショップで手に入るようなウィッグをうまく取り入れれば、気分に合わせて様々なヘアスタイルを楽しんだり、帽子姿をより自然に見せたり、医療用ウィッグの使用頻度を下げてその劣化を防いだりできる、と考えている。
さらに、抗がん剤投与は爪にも影響する。爪の根元にある爪母(そうぼ)細胞という爪を作る細胞が、抗がん剤の影響を強く受けることが原因だ。爪が黒ずむ、凹凸や縞のような線ができる、爪が肉から浮く、などのトラブルが起こるケースがあるが、脱毛と違って個人差が大きく、抗がん剤投与が終わると治る人が多いという。
対策は爪を十分に保湿すること。乾燥して免疫力も弱まるので、爪専用のオイルとハンドクリームを塗るとよい。二枚爪や亀裂の原因になる爪切りはやめて、やすりで削る方法を勧め、ネイルケア用に市販されている指先が二重になった手袋を、入浴、家事、睡眠時などに利用するよう紹介している。
上野さんらのレクチャーを受けた患者からは、「美容院に行けないのが悲しかったので、美容師さんのアドバイスを受けられてうれしい」「個室があってほかのお客さんに見られない美容院、相談できる美容院があるのは心強い」と喜びの声が聞かれる。
上野さんは「乳がん患者さんにも普通のお客さんと同じように接しています。患者さんが喜ぶ様子を見ていると、美容師になって良かったと思うし、美容師の仕事の可能性の広がりを実感します」と語る。病と闘う患者を美しくすることで、心も体もサポートしている上野さんたち美容師の活動の意義は非常に大きい。
[注2]抗がん剤治療による脱毛を経験した人や円形脱毛症の人などが一時的に着用するかつらのこと。粗悪品が流通することもあったため、2015年4月、医療用ウィッグのJIS規格が制定された。直接頭皮に接触する部分の皮膚刺激指数や、洗濯堅ろう度、汗堅ろう度などの性能、試験方法などが細かく定められている。
上松代表取締役。1971年北海道生まれ。札幌ビューティーメイク専門学校卒業。都内大手サロンにて美容師として12年間勤務の後、2005年4月、東京・築地に美容院「上松」をオープン、2010年「Salon Omm」をオープン。美容師向けの講習会は月1回開催しており、最新情報は同社フェイスブックで紹介している。
(ライター 芦部洋子、写真 鈴木愛子)
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