メタルGショック、伝道師の「ウソ」で誕生カシオ計算機(下)

カシオ計算機アドバイザリー・エンジニアの伊部菊雄氏
カシオ計算機アドバイザリー・エンジニアの伊部菊雄氏

カシオ計算機のアドバイザリー・エンジニアである伊部菊雄氏は業界ではその名を知られたカリスマだ。会った誰もが、その技術者としての純粋さと人間的魅力に引き寄せられる。「G-SHOCK(ショック)」の開発を手がけた後は、安くて高品質な「スタンダードカシオ」の設計に従事していた。1996年には商品企画部のプロジェクトリーダーとしてメタルGショック「MR-G」を商品化。現在はGショックの伝道師として世界各地を講演して回っている。そんな伊部氏の肩ひじ張らないエンジニア人生を聞いた。

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1行企画書が役員会を通った事情、今も謎

――Gショックが完成した瞬間、伊部さんは何を思いましたか?

「これでうそつきにならずに済んだ、と。とにかく落としても壊れない時計を作りたいという、その一心で始めた企画でしたから」

「入社したのは1976年です。会社に入っても、高校の入学祝いで買ってもらった腕時計をずっとはめていました。ある日、人とぶつかった瞬間にそれを落としてしまい、中の部品がバラバラになった。それを見て、壊れたショックよりも感動のほうが大きかったんです。うわあ、時計って本当に落とすと壊れるんだ、と」

「それでたった1行、『落としても壊れない時計』と企画書に書いて提案した。ふつうは基礎実験をしたうえで、構造案やスケジュールを書いて出すんですけれども、そのときはあえて1行だけ。ただ、時間がたつほどに、その1行の重みがプレッシャーになっていったんです」

「たった1行の企画書を、役員が審議してやってもいいということになった。いいように解釈すれば、その1行に力があったということ。悪いように解釈すれば、『こいつ何を言っているんだ。とりあえずやらせておけ』となったのかもしれない。理由はいまだにわかりません」

「とにかくその重みに耐え続けた開発の2年間だったので、時計ができた時点で、私の中ではすべてが完結しました。できなかったら会社を辞めなくちゃいけないというところまで自分を追い込んでいましたから、10年間は振り返ることができないくらい、つらい思い出でした」

最初から売れなくて、かえってよかった

――国内でGショックがなかなか売れないことは気になりませんでしたか?

「完成した時点でエネルギーが消滅したようになってしまったので、それ以上は特になにも。増田(裕一・取締役専務執行役員、当時は初代Gショック開発チームのリーダー)は当然、売れ行きを心配していたと思いますが、あのころ、私は彼に何を言われても上の空でした」

「売れないことは、かえってよかったんです。きっと完成した直後に注目されて取材を受けていたら、涙がこぼれて、最後までお話できなかっただろうと思いますから。それぐらいつらかったし、記憶の中から消し去りたかった。ただ、こんなふうにも思います。もしもあのとき、基礎実験もきちんとしたうえで構造案もスケジュールも書いたふつうの提案書を出していたら、もっと簡単に諦めていたかもしれない。しかるべき段階を踏んでだめだったのなら、堂々と『できません』と言えたはずです」

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