中大教授・山田昌弘さん 母の介護で家族社会学の道
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は中央大学教授の山田昌弘さんだ。
――進む道を選ぶ上で、お母さんの影響を大きく受けたそうですね。
「私が育ったのは東京都北区の下町です。父は印刷業を営んでおり、6歳離れた弟が下にいます。90代になった父は今も高齢者施設で健在ですが、母の知子は1996年に64歳で公害病の『環7ぜんそく』で亡くなりました。私が研究領域として、家族社会学を選んだ理由の大きな部分は、亡くなるまで母の介護をした経験にあります」
「当時、東京都をリング状に取り巻く環状7号線には自動車が集中し、排ガス汚染が深刻でした。私が小学生の頃には早くも、光化学スモッグ対策として教室にクーラーがついていたほどです。母は私が大学3年生の時にぜんそくの発作で倒れて入院し、亡くなるまで20年以上、寝たり起きたりの生活だったのです」
――社会保障について考えるきっかけですね。
「公害病認定を受けたため医療費はかかりませんが、介護は必要です。当時は介護保険がなく、父と私で、おしめの取り換えを含め、世話をしてきました。買い物や食事の用意など家事をこなし、弟の学校のPTAには、文字通り『父兄』として参加しました。裕福ではなかったので、スーパーマーケットの閉店間際に入って総菜の値下げを待つこともしました。『何でこんなことを男性の私がしなければならないんだ』と思う中で私は社会保障や性別役割分担、ジェンダー(文化的社会的性差)について考えました」
「大学卒業時には法務省と東京都庁の上級職に合格していました。しかし母の介護が必要なうえ、社会学研究を続けたいとの気持ちが強く、時間の融通が利く大学院に進学しました。そのころサークルの『駒場子ども会』で区から表彰を受けたこともあります。結婚前、郷里の秋田県で幼稚園教諭をしながらボランティア活動で新聞に載ったことのある母は、私のそんな活動をとても喜んでいました」
――28歳で東京学芸大学の助手になり、以来次々と著書や論文を発表します。
「当時、大学教員の職は今ほど狭き門ではありませんでした。教育熱心で読書好きだった母は、私の就職を普通に喜んでいたと思います。思い出すのは、私の最初の単独著書である『近代家族のゆくえ 家族と愛情のパラドックス』を94年に出した時の反応です。この本の論考の中に母の病気を取り込んだのですが、母はそれに気付き『あなたは小さい頃から転んでもただでは起きなかった』と苦笑していました」
「けれど、未婚化社会について論じた96年の次の著書は、母の死に間に合いませんでした。もう少し長生きし、私の本をもっと見せてあげたかったとは思いますが、母の期待には応えられたような気はしています」
[日本経済新聞夕刊2017年10月17日付]
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