日本社会の「マタハラ体質」 女優や政治家批判の背景
ダイバーシティ進化論(水無田気流)
このところ、若手女優の妊娠に伴う「違約金」騒ぎや、女性国会議員の公用車での子どもの送迎批判など、妊娠や育児をめぐるバッシングが目につく。前者は「契約」をめぐる女優の自覚のなさといった経済の観点から批判され、後者は政治家の公私混同かどうかが争点。私的な領域では祝福される妊娠・出産も、政治経済の場では途端に批判対象となるのはなぜか。
これは、日本の近代化当初から続く問題かもしれない。近代社会は私的な生活の場を家庭に閉じ込め、政治経済領域とは分離した。
主として生活の場において無償のケアワークを担ってきたのは女性、政治経済の場で有償労働に従事してきたのは男性である。前者は有用だが貨幣価値が派生しないのに対し、後者で得た貨幣は、ケアワークの購入が可能だ。この労働価値の非対称性の問題は長らく「自発的に無償労働に従事する美しい母親像」を称揚する言説によって、不問に付されてきた。
今なお母親による「ワンオペ育児」を当然視する風潮の根源には、この問題が横たわっている。しかも生活の場における私的な支援者は、同居家族の減少や地域社会の人間関係の希薄化により減少している。さらに、生活の場と政治経済の場を分けようとする志向性は、妊産婦を政治経済の場から排除するこの国の「マタハラ体質」に直結する。
日本社会はもともと農村共同体としての側面が濃厚だった。しかし、高度成長期に多くの人が都市部へと流入し、旧来の地縁血縁関係はほぼ解体した。だが日本人の生活意識の底には、今なお「ミウチの恥はヨソに見せない」という農村共同体的な感性が貼り付いてはいないだろうか。
かつての「村ごとミウチ」のようなあり方はもはや失われたが、育児や介護は家族だけで何とかすべきだとの視線は根強い。さらに高度成長期に培われた経済主義的基調はケアワークを妻に丸投げして働く労働者を標準とし、妊産婦などそれに適合しない人を有償労働の場から排除してきた。
このような現状を反映してか、将来子どもを欲しいと考える女性(18~39歳)の割合は、フランス80%、米国79.5%に対し、日本は63%とかなり低い(医療機器メーカー・クックジャパン調査)。「超」少子化が進行する最中、せめてこの社会に充満するマタハラ体質だけでも、払拭すべきではないのだろうか。
1970年生まれ。詩人。中原中也賞を受賞。「『居場所』のない男、『時間』がない女」(日本経済新聞出版社)を執筆し社会学者としても活躍。1児の母。
[日本経済新聞朝刊2017年10月9日付]
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