参考までにいうと、僕が受験した年の東京医科歯科大学の入試競争倍率は40倍ぐらいありました。東京大学や京都大学の医学部を受ける連中が、言葉は悪いですが、みんなすべり止めで受けたからです。千葉大からは、「千葉大受かったのに蹴るんですか」という電話が何度もありました。でも実は東京医科歯科に合格するのは大変だったんです。

大学卒業後、諏訪中央病院(長野県茅野市)に就職。閑古鳥が鳴いていた病院を再建した。

「他の病院がやっていないことを、勇気をもってやることができたのは、西高時代に、他人と違っていてもいいんだということを肌で感じ、学んだことが大きい」と話す

赴任した1974年、諏訪中央病院は4億円の累積赤字を抱え、いつ倒産してもおかしくない状況でした。医学部の同期がみんな東京など大都市の病院に就職する中、大変な状況を承知の上で、都会の大病院でなくてもいいやと、僕はあえてみんなと違う道を選びました。

直接的には、一緒に学生運動をやっていた仲間から「医者がいなくて困っているから、鎌田、行ってくれないか」と頼まれたのが理由でしたが、やはり自分の中には、自由な生き方をよしとする西高の血が流れていたのです。

その後、仲間と一緒に何とか病院の経営を立て直し、30代で病院長になってからは、地域とつながる病院を目指し、様々な先進的な取り組みをしてきました。救急医療や高度医療では東京の大病院にどうやってもかなわないから、日本一患者に優しく温かい病院にしようと、当時はまだ珍しかった在宅ケアを充実させたり、患者さんの食生活改善に力を入れたりしたのも、その一環です。

長野県は今、日本一の長寿県として有名ですが、僕たち諏訪中央病院の取り組みが長寿に大きく貢献しているのではないかと自負しています。

他の病院がやっていないことを、勇気をもってやることができたのは、やはり、西高時代に、先生たちが、いびつだった僕をきちんと受け入れてくれ、他人と違っていてもいいんだということを肌で感じ、学んだことが大きいと思っています。

西高の卒業生には、僕のように自由に生きている人が多い。

例えば、「がんばらない」を出版した時に変な祝辞をくれた剣道部の同期の好村兼一君は、東大在学中、1年間、フランスに剣道を教えに行き、現地の水が合ったのか、そのままフランスに移住。フランス人に剣道を教えながら自らも八段をとり、さらには歴史小説家として作家デビューした変わり種です。東大の肩書きや経歴にこだわらない彼の自由な生き方は、西高生の典型だと思います。

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