ミュージシャン・伊藤ふみおさん ライブで踊る母
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はミュージシャンの伊藤ふみおさんだ。
――父親は学者だとか。
「大学で金融論を研究し、教えていました。厳しくも優しく、責任感と美意識の強い人間です。自分が16歳の時、病気で亡くなりました。中学入学ぐらいから没交渉だったので、記憶があいまいな部分もあります。7歳上と5歳上の姉に比べれば、甘く育てられたかもしれません」
「あまり細かいことは言わない人でしたが、算数の宿題では、計算式の線を必ず定規で引かされました。自分も娘の宿題を横で見て、大ざっぱに書いていると書き直させてしまいます。似てますね」
――一番の思い出は。
「小学校受験です。試験の順番を決めるクジを引く時に『お前のラッキーナンバーは1だから、1番を引けよ』と言われ、実際に引きました。2人で盛り上がったらリラックスできて、運良く合格もできました。なぜ1がラッキーナンバーなのかは分かりませんでしたが」
――思春期に父親の不在を実感したことはありますか。
「母が守るべき存在になりました。母には弱いところを見せられないという気持ちが強く、1人で悩み、いらついていましたね」
――母親はどんな人?
「小さい頃から『大きな夢に向かって頑張りなさい』と言われました。母は12歳で父親を亡くしています。『人生いつ何があるか分からない。夢を持って、今をしっかり生きてほしい』と成人した頃に改めて言われました」
――ミュージシャンになると決めた時の反応は。
「自分では、大学4年になる直前のあるライブで『プロでやれる』という感触をつかみ、決めました。母に就職活動はしない、リクルートスーツも作らないと言ったら、口をぽかんと開けていました」
――下積み時代は。
「仕事もほとんどない時に、タトゥーを入れたんです。母には『入れるのは構わないが、日本で生きていく上ではマイナスになることが多い。それでも絶対に、日本の社会は遅れているとか、社会のせいにしてはいけない。タトゥーを入れていても認められるぐらい頑張りなさい』と言われました。ハッとしましたね」
「音楽活動は本当に応援してくれました。『ライブに行くと、必ずお母さんがいるね』と言われるぐらい。ファン第1号的な立場です。今年で84歳なので、最近はなくなりましたが、数年前までは会場で誰よりも踊っていました。ライブは長時間だからと椅子席を手配しても結局は約2時間、踊り続けていましたし」
――今も同居している。
「二世帯住宅ですが、朝だけは毎日、母が作ったご飯を一緒に食べます。母が献立を考え、買い物にも行きます。それが親孝行というつもりはあまりなく、自分の娘が成長した時に何か意味を持つのでは、と思っています」
[日本経済新聞夕刊2017年10月3日付]
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