15年の植物状態から意識回復 定説覆す新治療法とは
植物状態に陥った患者が1年以上回復しない場合、症状は恒久的とみなされ、回復の見込みはないと考えられてきた。だからこそ、自動車事故後に15年間植物状態だった男性が意識を取り戻したというニュースは驚きを持って受け止められた。脳は、そのように機能するはずがないのだ。
フランスの研究者が、ある装置を35歳の患者の胸部に埋め込み、迷走神経に電気を流し刺激した(VNS)。迷走神経とは、頸部を通り腹部まで伸びる脳神経で、覚醒や注意に関係している。
この刺激療法を毎日1カ月間続けた結果、あらゆる望みが断ち切られていた男性は、驚くべき回復を見せた。この研究は、2017年9月25日付けの科学誌「Current Biology」に発表された。
新しい治療法に関してこれまでにわかっていることや、この研究が植物状態の患者にとってどのような意味を持つかなどを以下に紹介する。(参考記事:「薬物、酒、ギャンブル… 脳科学で克服する『依存症』」)
【植物状態とはどのような状態か】
植物状態にある人間は自力での呼吸が可能で、目を覚ましたりすることもある。だが、周囲の状況を認識できず、意思疎通もなく、外界からの刺激に反応する意識もない。フランスのリヨンにあるマルク・ジャンヌロー認知科学研究所所属で、今回の研究を率いたアンジェラ・シリグ氏は、「意識がこの世に存在しない状態」と説明する。覚醒と意識が完全に切り離されている状態とも言える。
人が外界からの刺激に反応しない状態は他にもある。そのひとつが昏睡状態で、この場合、患者の意識はなく、覚醒もしていない。昏睡状態からは、回復して完全に意識を取り戻すことは可能だ。しかし、なかには意識を取り戻しても限定的であったり、植物状態になったり、あるいは、刺激に反応しないもうひとつの状態である「閉じ込め症候群」になることもある。これは意識がしっかりあるのに、意思疎通を取る能力が失われた状態だ。
現在、植物状態の患者がどれくらい存在するかは不明だ。米国疾病予防管理センター(CDC)のウェブサイトには情報は掲載されていない。また、電話での問い合わせにもすぐに返答はなかった。
【男性は15年経って突然意識を回復したのか】
そうではない。テレビドラマのように劇的なものではなかったが、その回復には目を見張るものがあった。専門的には、ごくわずかだが確実に意識が認められる「最小意識状態」に移行したといえる。1カ月にわたって迷走神経を刺激した後、男性は首を右から左へ動かすというような、簡単な指示に反応するまでになった。
セラピストが本を朗読しているのを聞けば、以前よりもずっと長い時間目覚めていることができる。また、脅威を察知して反応もする。誰かが突然目の前に顔を近づけた時に、目を大きく見開いたという。植物状態の患者は、そのように個人のスペースが侵されても、何の反応も示さない。
男性の回復は、脳の画像でも確認された。脳の領域間で情報のやり取りがより多くみられ、代謝活動も増加していた。
【偶然、その時に男性が回復しただけではないのか】
恐らくそれはない。研究者は、この研究のために特に植物状態が長く続き、回復の見込みがない患者を選んだ。
【迷走神経を刺激してみようと思ったのはなぜか】
この神経を活性化させると、覚醒や注意、闘争・逃走反応に深く関わっている「ノルアドレナリン作動性」の神経経路に信号が発生する。迷走神経刺激は、てんかん患者に一般的に施されている療法で、うつ病や神経障害の治療に使われることもある。また、外傷性脳損傷を受けたばかりの患者に試験的に使用されたこともある。
米ミネソタ大学神経外科学部の准教授で、軽い外傷性脳損傷患者に迷走神経刺激療法を施しているアズマ・サマダニ氏は、フランスの研究結果を歓迎し、「このような研究を、強く支持します」と、メールに書いた。
「外傷が関係する意識障害のメカニズムは完全には理解されていませんが、この症例の場合、迷走神経への刺激は効果を約束しているようです」
【他の深刻な脳損傷患者への効果は?】
この研究の成果は目覚ましいものではあるが、ほんの一例に過ぎない。迷走神経刺激がもたらす潜在性をより深く理解するため、研究者はさらに多くの植物状態にある患者を対象に今回の結果を確かめる必要がある。
より多くの患者で効果が実証されれば、この療法は限定的に意識のある患者に、わずかでも自由な意志と意思疎通能力を与えることができるだろう。損傷を負った直後の方が治療効果は高いようだと、シリグ氏は付け加えた。同氏は、次にその研究を計画している。
「刺激を与えるのが早ければ早いほど、身体機能に影響を与え、生理的平衡をある程度回復させることができるでしょう」
【意識が戻り、自分の状況を多少なりとも理解した男性にとって、今の状態は本当に好ましいと言えるのか】
それに答えるのは難しい。男性の家族は、男性の病状について公にコメントすることを避けている。だが、シリグ氏は前向きだ。「他人が自分に何をしているのか、何を語りかけているのか、全く気付かないよりは理解できた方が良いです。私だったら、意識があった方が良いと思うでしょう」(参考記事:「ゲノム編集、サイボーグ… 科学で『進化』する人類」)
(文 Karen Weintraub、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2017年9月27日付]
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