海外旅行中に急病になったら? よくある間違いと対策
海外旅行や出張に出かけるとき、多くの人は海外旅行保険に加入し、目的地によっては感染症対策のために予防接種を受けるなどの準備をしているだろう。しかし、旅行医学を専門とする千駄ヶ谷インターナショナルクリニックの篠塚規院長は「実際にはもっと必要な備えがある」と指摘する。海外での体調不良に備えるためにはどんな薬を持参すればいいのか。万が一、命に関わるような病気を発症した場合はどうすればいいのかなど、海外渡航時の健康トラブルに対応するための備えを篠塚院長に伺った。
持参薬の基本は3種類、「日本人特有の下痢」にも備える
――日本とは環境の異なる海外へ出かけるとき、ちょっとした体調不良に自分で対処するためには、どんな薬を持参しておくといいでしょうか。
海外旅行時に想定される体調不良は、風邪やインフルエンザ、胃腸炎、下痢といったものが一般的です。ですから、日本で使い慣れた風邪薬、頭痛や発熱、歯痛などに対処できる鎮痛薬、胃腸薬の3種類を持参しておくといいでしょう。
そのほか、持病のある人は普段飲んでいる常用薬を、旅行日数分に加えて、7日分程度を予備として用意しておくと安心です。飛行機の遅延や欠航、災害など不測の変更時に役立ちます。
――海外では下痢をよく起こしがちです。細菌などの病原体の感染を防ぐには、生水や火の通っていない食べ物は口にしない、氷の入った飲み物は避けるといった注意がよく知られていますが、そのほかにも有効な予防法はありますか。
海外、特に衛生的な環境が整っていない国や地域では、細菌などによる感染性の下痢を起こすことがあるので、そうした注意が必要です。ただ、日本人の場合は、ハワイや米国本土、ヨーロッパへ行っても、3日もすると多くの人が下痢を起こしたり、軟便の回数が増えたりします。いわば、「日本人特有の下痢」があるんですね。
それは、「食事と水の違い」から起こる下痢です。日本の食事は油分や脂肪分が少ないのですが、海外での食事はいずれの場所でも、日本よりも油分や脂肪分が多い食事になります。また、日本の水はほとんどがカルシウム・マグネシウムの含有量が少ない軟水ですが、ヨーロッパや北米などの大陸系の国や地域は、カルシウム・マグネシウムを多く含む硬水が一般的です。医療では酸化マグネシウムが下剤として使われているように、マグネシウムは下剤のような働きをすると考えられます。この日本人には慣れない油分の多い食事と硬水が相まって、数日もすると下痢を起こしやすくなるのです。
――なるほど、確かにそうですね。そうした日本人特有の下痢を防ぐにはどうすればいいでしょう。
それには、プロバイオティクス(生きたまま腸に届いて増殖し、体に良い影響を及ぼす微生物)をとること、つまり乳酸菌整腸剤などで腸内の善玉菌を強化しておくことが有効です。日本ではさまざまな乳酸菌整腸剤が市販されていますが、その中でも消化酵素剤の入ったものが、脂っこい食事対策には適しています。
2002年の日本旅行医学会の立ち上げの頃、いろいろな乳酸菌整腸剤を買って試したところ、消化酵素剤が入った「パンラクミン錠」(第一三共ヘルスケア)の有用性が確認できたため、私はこの乳酸菌整腸剤を予防的に飲むことを勧めていますが、それ以降に発売されたものもあると思うので、他にも有用なものはあるかもしれません。
――下痢を起こしてしまった場合に備えて、粉末のスポーツドリンク剤などイオン飲料も用意したほうがいいでしょうか。
スポーツドリンクは電解質がとれる一方、糖分が多いため、私はあまりお勧めしていません。現地の空港の売店や薬局などで経口補水液(ORS)が入手できますし、インスタントの味噌汁やスープなどでも代用できます。
海外で実際に死亡リスクが高いのは、感染症よりも心疾患や脳卒中
――持参薬のほかに、渡航前に準備しておいたほうがいいことはありますか。例えば、渡航先によっては、感染症対策のための予防接種を受けることが推奨されています。
東南アジア、中南米、アフリカなどに行く場合は、感染症予防のためのワクチンを接種しておくことが大切です。国や地域によっては予防接種証明書の提示が義務付けられている場合もあるので、事前に「FORTH(厚生労働省検疫所)ホームページ(http://www.forth.go.jp/)」などで渡航先の情報を入手して、必要とされる予防接種を受けておきましょう。
また、高齢者が団体のツアーに参加される場合は、インフルエンザや肺炎予防のためのワクチンも接種しておくことをお勧めします。海外旅行時は環境の変化や移動などで体への負担がかかるため、インフルエンザや肺炎にかかりやすくなるうえに、誰か1人が発症すれば、集団感染するリスクもあります。
しかし実情では、感染症で死亡に至るケースはごく稀です。死亡例の多い感染症の1つに狂犬病がありますが、日本人では2006年にフィリピンで犬にかまれた人が帰国後に発症、死亡するケースが2例あって以降、ここ10年の報告はありません。
外務省の「2015年(平成27年)海外邦人援護統計」によれば、2015年の海外における死亡者数は533人で、そのうちの約8割を占める406人が「疾病等」で亡くなっています。外務省では詳細な疾病名は公表していませんが、大手保険会社の死亡保険金の支払い統計などを参考にしてみると、死因の多くを占めているのは心筋梗塞や脳卒中です。
ですから、心筋梗塞や脳卒中のリスクがある人は、できればそれを加味した予防検診を受けておくといいでしょう。例えば、国民健康保険は適用されませんが、心筋梗塞や脳卒中の原因となる動脈硬化を数値化して、発症リスクを調べる血液検査に「LOX-index(ロックス・インデックス)検査」というものがあります。
――心筋梗塞や脳卒中のリスクがある人とは、具体的にはどんな人でしょうか。
高血圧症、脂質異常症(高脂血症)、糖尿病、肥満といった生活習慣病のある人、喫煙習慣のある人、家族が心筋梗塞・脳卒中を経験している人が挙げられます。年齢は40歳以上ですが、今挙げたようなリスクファクターがあれば、30代でもリスクがあるといえます。
また、こうした生活習慣病などの持病がある人は、常用薬の準備だけでなく、現病歴(現在かかっている病気がいつから、どのように始まり、どのような経過をたどってきたかの履歴)や使用中の薬剤名、アレルギーの有無などの情報を、英文で用意しておくことを勧めています。
そのために、日本旅行医学会では『自己記入式安全カルテ』(旅の医学社)を監修しました。書式にのっとって自分で記入できるカルテのほか、海外旅行時に必要な準備や心構え、海外での病院のかかり方、病院での簡単な英会話集などをまとめています。こうしたものを活用して、自分でカルテを作成したあとに、主治医にチェックしてもらうとなおいいでしょう。
――冊子を拝見すると、詳細な医療情報が掲載されていますね。
欧米人の多くは海外旅行に出かける際は、必要な医療情報をあらかじめ知識として持っています。一方、日本人の場合は「予防接種を受けて、保険に入っておけば安心」程度に考える人が少なくありません。欧米で発行されている多くのガイドブックでは、旅行中の健康管理に関連した情報にかなりのページが割かれていて、専門家から見ても必要な情報が正しく掲載されています。ところが、日本で発行されている主なガイドブックには、実際に則した医療情報が少なく、本当に必要な基本的情報さえほとんど書かれていないといっても過言ではありません。
必要な医療情報、正しい医療情報を知らないために、最悪の場合は命を落としてしまう不幸な事例もあります。
例えば、米国では未成年(州により年齢は異なる)が医療機関を受診する場合は、親権を持つ保護者の治療承諾書が必要です。それがなければ、ER(救急科)以外では基本的に診療を断られてしまいます。米国をはじめ多くの国では、医師には診療を拒否する権利があるのが一般的で、それが法的に認められていない日本のほうが特殊なのです。そのため、『自己記入式安全カルテ』は成人用のほか、学生用、小児用も用意して、それぞれに必要となる情報を提供しています。
命に関わる緊急時は、一刻も早く専門病院へ
――その国によって、医療文化が異なるのですね。
そうです。日本と同じ感覚で海外の医療機関を受診しようとすると、適切な診療が受けられない可能性があります。特に、心筋梗塞や脳卒中など命に関わる病気の場合はなおさらです。
――命に関わる病気かどうかを、自分で判断するのは難しいこともありそうです。
経験したことのない痛みを感じるなど、自分が緊急事態だと思えたときは、すべて救急(ER)と判断すればいいのです。日本では重症患者に対応する3次救急病院[注]へは、原則として救急車を呼ばなければいけないことになっていますが、海外では救急車を呼んでいたら間に合わないケースが多いので、自家用車やタクシーで、一刻も早く受診するのが基本です。
そのときに、日本人に注意してほしいのが、1秒でも早く、質の高い診療を受けられる専門病院へ行くことです。多くの日本人は、クレジットカード会社や保険会社が提供する医療電話サービスを利用して、日本語が通じる医療機関を紹介してもらおうとします。そんなことをしていれば、緊急時には手遅れになってしまいます。実際、海外の救急医学会に出席すると、いろいろな国の一流病院の救急医から、「日本人はいつも手遅れになってから来る」と言われます。
日本語が通じる医療機関は、命に関わる恐れのない体調不良のときにかかるべきで、緊急時には宿泊先のホテルや現地の知り合いなどにアドバイスを求めて、あるいは救急車で1秒でも早く、専門病院を受診してください。
海外留学生を多く送り出しているある大学では、かつては医療上のさまざまなトラブルがあったといいますが、渡航前に日本と海外の医療文化の違いのほか、持参すべき薬、うつ病とホームシックを見極めるセルフチェック法、性感染症の予防などを説明する医療ガイダンスを行うようになってからは、ほとんどなくなったそうです。この大学では海外留学をする学生全員に、英文の自己カルテや保護者の治療承諾書を持参することを義務付けています。最近では他の大学でも、留学生向けの医療ガイダンスの実施を普及する動きが出てきています。
若年層よりも心筋梗塞や脳卒中といった死亡につながる病気のリスクが高い中高年はなおのこと、海外に渡航する際は、正しい医療情報、知識を身に付けて行ってほしいと思います。もちろん、日ごろから生活習慣病のリスクを下げる生活習慣の改善を心がけることも重要です。
[注]日本の救急システムは、1次救急病院(軽症患者対応)、2次救急病院(中等症患者対応)、3次救急病院(重症患者対応)の大きく3つに分かれ、3次救急病院は、2次救急病院では対応できない重篤な救急患者を24時間体制で受け入れる体制と高度な診療機能を持つ。
千駄ヶ谷インターナショナルクリニック院長、日本旅行医学会専務理事。1975年千葉大学医学部卒業。日本赤十字社医療センター外科研修を経て、米ピッツバーグ大学医学部の重症疾患ユニットに勤務、救急医学を学ぶ。米ジョンズ・ホプキンズ大学医学部研修を経て、英文診断書の翻訳・作成を行うオブベース・メディカ(現・旅の医学社)設立。2002年日本旅行医学会設立。2013年クリニック開業。欧州救急医学会教育認定医。
(ライター 田村知子)
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