VERBAL なぜ米エリート証券マンからラッパーに?編集委員 小林明

――いきなり優勝ですか。すごい勢いですね。

大会「Battle of the Bands」でベストボーカリスト賞を受賞(1992年)

「レコード会社から契約のオファーも受け、夢が大きく膨らみかけたのですが、両親から猛反対されました。『ラップで食べていけるわけがないだろう』というわけです。僕も『まあ、そりゃそうだな』と一応は納得して、ミュージシャンとしてデビューする道を諦めました。両親には『弁護士でも医師でも何でもいいから、安定した職業についてほしい』といつも言われていたので、高校を卒業したら良い大学に進学して両親を安心させようと考えていた。ニューヨーク大学やボストン・カレッジに合格し、『ニューヨークに行ったら絶対に勉強しなくなるだろう』と両親に言われて、ボストン・カレッジを選んだのです」

両親を安心させようとボストン・カレッジへ、ニーチェやキルケゴールの哲学に熱中

――ボストン・カレッジでは何を勉強したのですか。

「経済学を専攻していて、さらに哲学の授業も受けたらすごく面白かったのでダブルメジャー(2つの専攻を履修)にしました。ものごとを難しく考えることが大好きで、哲学の論理的な思考に引かれたんです。熱中したのはニーチェやキルケゴール。難しい本を読んでいる自分の姿に酔っているようなところもあったと思います。大学卒業は1997年。インターンで大学4年生から働いてきた米証券会社スミス・バーニーにそのまま就職しました。世間的なイメージが良い会社なので、両親も喜ぶと思いました」

――名門大学を出て、エリート証券マンになったわけですね。

「ボストンの金融街で働きましたが、職場の雰囲気は独特でしたね。上司はベーグルを食べて、なぜかプラスチック製バットを振りながら、バリバリ仕事をしている。業績が上がるたびにフロア全体がウォーと盛り上がって、『よし、今夜は飲むぞー。イェー』なんてイケイケムードになっている。レオナルド・ディカプリオが主演した映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』みたいな世界でした。でも、僕はどうしても仕事に熱意や興味が持てなかった。両親を喜ばせることを優先して、自分の身の丈に合っていなかったんでしょうね。午後5時までの仕事でしたが、4時半ぐらいになると『早く5時になれ』と時計ばかり気にしているような社員でした。だからインターン期間も含めて1年も続かず、結局、会社を途中で辞めてしまいました」

エリート証券マンになじめず1年で退社、デビューのきっかけは☆Takuとのコラボ

――サラリーマン生活が合わなかったんですか。

「いいえ、サラリーマン生活が嫌いというより、自分のやりたいこと、パッションはなんだろうと考えるようになったんです。少し生意気ですけど、人のためにできる仕事とはなんだろうと。それで、とりあえずインターネットの会社に勤めたり、セールスの会社に勤めたり、神学校に行ったりしながら過ごしていましたが、たまたま日本に帰国した冬休みが人生の転機になりました。高校で一緒にバンドを組んでいた☆Takuが楽曲のリミックスを作っていて、『ラップやってよ』と久しぶりに誘われたんです。そこで高校時代の軽いノリで歌ってみたら、その曲のアナログ盤500枚があっという間に完売したと聞いてビックリしました。そんな調子で米国と日本を何度も行き来しているうちに、☆Takuと曲を作るようになり、m‐floの原型になっていきます」

――どういう歌詞を書いていたんですか。

「米国のラップの歌詞を聞いていると、黒人として米国に生きる意味とは何かとか、政治的な背景を強く打ち出している。RUN-DMCやクール・モー・ディー、パブリック・エナミーもみんなそうです。僕は黒人ではないけれど、自分だったらこう書こうかなという方向で書いてみると、自然にペンが進み、歌詞が書けるようになりました。最初は、俺は格好いいぜとか、人種差別はよくないよねとかいう感じで、そこに女の子にモテたいみたいな気持ちが混在するというよくわからない歌詞を書いていました。リズム感があって韻を踏んでいれば何でもいいやという感じです。ちなみに高校時代の最初の作品は『リアル・ディール』と『アクト・オブ・スプレマシー(国王至上法)』。俺は本物だとか、俺の言うことには誰も逆らえないとか、そんな意味の大げさなタイトルの曲。なんだかダサくて恥ずかしいですね」

「m‐flo」「VERBAL」命名の由来は? 珍しかったアジア人ラッパー

――ついにm‐floとしてデビューします。

デビューして印税が入ると憧れていた金のネックレスをすぐに買いに行ったという

「当時の音楽事務所の社長から『絶対にデビューした方がいいよ』と熱弁されたんです。でも高校時代に僕は音楽の道を諦めていますから、やはり簡単には踏み切れません。アジア人のラッパーもほとんどいないし、『ラップで食っていくのは簡単ではないよな』とずっと思っていた。『デビューしてもすぐに売れなくなるんじゃないか』とやけに慎重になっている自分がいました。でも、曲が売れ始めると、日本での仕事が急に忙しくなり、結果として日本にずっといることになりました。最初に印税が入ったときには驚きましたね。まとまってお金が入ってくるという発想がまったくなかったんです。学費やローンを払った後、憧れていた15万円くらいの金のネックレスをすぐに買いに行きました」

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