2016年末、北海道での交通事故で瀕死(ひんし)の重症を負い、死の淵から生還した人気ミュージシャン、VERBAL(バーバル)さん。米名門ボストン・カレッジを卒業した後、勤めていた証券会社スミス・バーニーを依願退社し、やがてラッパーとして音楽活動を開始。現在では音楽プロデュースやDJ、服飾デザインなども手がける人気クリエーターとして活躍を続けている。なぜエリート証券マンのキャリアを捨ててまでラッパーになったのか?
前回「人気DJ、VERBAL 死の淵から生還して学んだこと」に続き、VERBALさんの独占インタビューの後半を紹介する。
小5の夏に米国でヒップホップに衝撃、漫画家目指した少年時代
――最初に音楽と出会ったのは米国だったそうですね。
「そうです。小学校5年の夏に母親とボストンに行き、現地のサマーキャンプに参加したときにものすごい衝撃を受けました。同世代の子どもたちがナイキのジャージーやスニーカーを履き、金のネックレスを付け、ロボットみたいなカクカクした動きでブレイクダンスを踊っているんです。ラジカセを担いでヒップホップグループ、RUN-DMC(ラン・ディーエムシー)の曲をかけながらラップを口ずさんでいた。そんなの生まれて初めて見たのでビックリしました。『なんて格好いいんだろう』と思ったのがすべての出発点です」
――VERBALさんはどんな子どもだったのですか。
「東京の目黒で育ったのですが、僕はおかっぱ頭にアニメのTシャツを着て、半ズボンに『電子戦隊デンジマン』のズック靴を履いていた。
『ドラえもん』ののび太くんみたいな格好をしていたんです。どこにでもいるような小学生でした。小3のときにアニメ『北斗の拳』が始まり、ロボット玩具『トランスフォーマー』やミニ四駆で遊び、キン肉マン消しゴム(キン消し)を集めていた世代。ファミコンの『ポートピア連続殺人事件』や『ドラゴンクエスト』にも熱中していました。当時の僕は『ドラゴンボール』など鳥山明さんの漫画が大好きで、将来は漫画家になろうと夢見ていた。自分でスクリーントーンを買って来て、自作漫画を描いて友人に見せたりしていた。そんな無邪気な少年に突然、米国のヒップホップ文化が飛び込んできたわけです」
オーディション番組でいきなり優勝、「ラップでは食えない」とデビューを断念
――それは大きなカルチャーショックですね。
「『ラップ音楽って、言葉をしゃべっているだけなのに歌として成立しているんだ』なんて驚いて、興味を持ったのを覚えています。まだインターネットがなかったので、米国のヒップホップの専門雑誌を定期購読するようになり、自分なりに最新情報を一生懸命に集め始めた。タワーレコードにもヒップホップのコーナーが少ししかなかったころの話です。やがて高校に入ったあたりから歌詞を書き始め、現在のm‐floのメンバーである☆Taku Takahashiとバンドを組みます。そこで初めて人前でラップをするようになったんです。☆Takuは小学校からの同級生で、早い時期からシンセサイザーで音楽を作っているクリエーティブな人間でした。音楽を一緒にやっているうちに、ある日、テレビのオーディション番組に挑戦しようと思い立って、試しにデモテープを送ってみたらすんなりと合格。そのまま出場して一気に優勝してしまったんです」