「日本橋に首都高いらない」 地元重鎮が地下化に異議「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛さんに聞く

――地元として、きちっと意見を言わなかったことについて、後悔はありますか。

「いや、今まで高速道路が果たしてきた社会的な役割はそれなりに評価してあげないといけない、きちっと認めないといけないと思う。その後の車社会を考えたときに、『なかったら大変だったな』と。時代が変わって、車社会でなくなって、景観とか環境とかが重要な時代になり、ちょうど高速道路の寿命も来た。役割を果たしたということです。(日本橋が架かっている)川を残してくれただけよかったよ。東京には埋めちゃった川がたくさんある。京橋だって、数寄屋橋だって、みんな昔は川だったんだ」

日本橋から広々とした青空が見えた。(1939年刊の「日本地理風俗大系大東京」より=中央区立京橋図書館所蔵)
戦後の日本橋。三越方面から野村証券を望む。1957年頃撮影(「日本橋」=中央区立京橋図書館所蔵)

――高速道路が架かる前の日本橋はどんな光景だったのでしょうか。水もきれいだったのでしょうか。

「なんといっても青空があったよね。ただ川は昔もけっしてきれいじゃなかった。なにせ『幹線道路』だから。日本橋の川で泳いだなんていう人がいれば大うそつきですよ。さっきも話したように慰安旅行で潮干狩りに行ったんですが、うちの職人が酔っ払ってドボンと船から川に落ちたことがあった。菓子の職人だから、衛生の問題がある。本人は何ともないと言うんだけれど、検査をしてもらおうと慌ててそばの医者にかつぎこんだ。そのくらい汚かった」

かつて日本橋の上を都電が通っていた。1957年10月撮影(「日本橋夕影」=中央区立京橋図書館所蔵)
日本橋の夜景。水面に映る橋灯の明かりが美しい。1957年頃撮影(「日本橋夜景」=中央区立京橋図書館所蔵)

――泳ぎはしなくても、川べりを散歩していたとか。

「いや、(銀座をそぞろ歩く)銀ブラのようなことはなかったね。とにかく生活に川が密着していた。(築地に移る前の魚市場があった)魚河岸が代表的です。たくさんの人が集まってきて、それが日本橋の商業を支えていた。威勢のいい河岸の兄ちゃんのなかには甘いものが好きなやつもいたから、うち(栄太楼総本舗)はそいつらのエネルギー補給のためにきんつばや大福を売った。当時は店じゃなくて屋台だったからね。商売するにはいい場所だったと思います。景観のために川があったんじゃなくて、生活に川が貢献していたといえるんじゃないかな」

――高速道路が撤去されたら、どんな街にしたいですか。

「昔の面影を復活させようとは思わない。(江戸時代の町並みを再現したテーマパークの)『日光江戸村』じゃあ、だめなんです。伊勢神宮のおかげ横丁や浅草の仲見世を思い浮かべる人もいるかもしれないが、あれは門前町です。日本橋は『新しい町』でなくてはなりません」

大人の街になってほしい

――新しい日本橋とは、どんなイメージですか。

「大人の街だね。単に年齢じゃなくて、大人としての感性、お行儀がよくて、服装もちゃんとしている。うちのおふくろはここ(日本橋)で生活していたけれど、(近所の百貨店の)三越や白木屋に買い物に行くときには、ちょっとお化粧して身繕いしていた。決して、割烹(かっぽう)着にゲタ履きでは行かなかった。そんな格好じゃあ、ちょっと恥ずかしいという気持ちがあったんじゃないかな」

日本橋の将来イメージ(提供:日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会)
細田氏は老舗和菓子店「栄太楼総本舗」の6代目にあたる

「僕はいま広尾に住んでいますが、(近くにある)渋谷の交差点でネクタイしていたら皆じろじろ見ますよ。『なんだ、このじじい』と。こっちのほうが恥ずかしくなっちゃう。それと逆の話で、『日本橋に短いパンツをはいていったら恥かいちゃったな』と(思われるくらいでいい)。いま日本中、若者の街ばかりつくろうとしているじゃないですか。大人の街というのが、日本橋のにぎわいの基本であってほしい」

――具体的に説明してもらえますか。

「(川岸の)護岸のところに歩く道をつくって、平屋の1階建てくらいの名店を入れる。このへんの職人さんは、染色にしても何にしても、いい技術を持っている。(手拭いなどを作るにしても)富士山とか芸者といったデザインではなくて、むしろイタリアとかパリのデザイナーとコラボして、そこに職人芸を組み合わせて、江戸ブランドを発信してほしい」

「江戸っ子は高級が嫌い。一流のものが大好きなんです。お金をかければ高級に見えるが、中身がよくないと一流とはいえない。たとえばルノワールの絵がかかっていても、ずっと同じ絵じゃあしょうがないでしょう。日本橋は高級な街じゃなくて、一流のものばかりがある街であってほしい」