江戸時代に東海道など五街道の起点だった東京・日本橋。その真上にかかる首都高速道路を地下に移して、水辺の景観を取り戻す構想が動き出した。国土交通省と東京都は2020年の東京五輪・パラリンピック後に工事を始めたい考えだ。もっとも地元が手放しで喜んでいるかといえば、そうでもない。老舗和菓子店「栄太楼総本舗」6代目の細田安兵衛さん(90)は「工期も費用もものすごくかかる。本当に地下化が唯一無二の方法なのか」と疑問を投げかける。長年、日本橋の移り変わりを見守ってきた細田さんの目にはどんな未来が映っているのか。
――地元の悲願だった首都高速道路の移設がようやく動き始めました。どのように受け止めていますか。
「1964年の東京五輪の前年に高速道路が架かってから、我々が願っていることはただ1つ、変わっていません。(移設に向けて国と東京都が)とにかく前を向いてくれた、スタートラインについてくれたのは大変ありがたい。ただ地下化となると工期も工費もものすごくかかる。個人としては、地下化が唯一無二の方法とは考えていません」
「06年に当時の小泉純一郎首相のもとで日本橋の高速地下化が浮上した時には、5000億円かかるといわれていました。竹橋からとして、わずか3キロメートル程度。1センチメートルで170万円。大変なお金なんだよな。今なら資材高などで、もっとかかるかもしれない。工期だって少なくとも10年、いや15年、20年はかかるでしょう。このへんは砂地だから、くいを相当深く打たないといけない。地下に高速道路を通しながら、再開発でビルを建て替えるとなると、技術的に大変な問題があります。地下ができあがってからでないと地上の高速道路は移せないわけで、その間に大きな地震があれば(老朽化が進んだ高架が崩れて)大惨事になるもしれません」
いまや日本橋で乗り降りする車ない
――地下化が唯一無二の方法でないとすれば、どうしたらいいと思いますか。
「そりゃあ、不要論ですよ。壊しちまうのが一番いい。(都心環状線の)日本橋あたりで乗り降りしている車なんてほとんどありません。全部、通過ですよ。東北道から東名高速に行くとかだけ。それに昔は日本橋の上でずいぶん渋滞していたけれど、いまは見ていたら、すうすう通っている」
「(建設が進んでいる圏央道、外環道、中央環状線の)『3環状』が完璧にできて、通行料をうんと安くすれば、(東名高速、中央道、関越道、東北道、常磐道を行き来する車は都心環状線を経由しなくなって)日本橋を通過する車はほとんどなくなるんじゃないですか。もう車社会じゃない。僕の孫たちだって車の免許はとらないよね。せっかく地下に高速道路をつくっても1時間に何台も通らないというような世の中になるかもしれない」
「壊すにしてもお金が全然かからないことはないが、壊してさらに地下化するのに比べれば(ずっと安い)。地元も、がれきの処理などで協力する。僕だってツルハシ持って手伝うよ(笑)」
――日本橋が商業の中心地であり続けるとすれば、それに見合った交通や物流は必要ではないですか。
「パリでもロンドンでもローマでも、街のなかに高速道路をつくっていません。みんな郊外。高速道路は街と街をつなぐものです。陸送で不足なら、水運を使えばいい。大きな地震があれば、復興のためにがれきを船で東京湾に捨てないといけない。(高速道路の)橋桁があったら船が通れないでしょう」
――水運なんて、現実的なのでしょうか。
「(今も)羽田空港から水上バスに乗って日本橋まで来られる。景観も良くて、すてきじゃないですか。いつまでも陸送の時代じゃありません」
「僕が小学生のころまでは、このあたりもまだ水運が盛んでした。今でいえば、『4車線の幹線道路』だね。日本橋から江戸橋にかけて魚河岸があって、(魚や海産物を荷揚げする)船板がたくさん出ていて。うち(栄太楼)の荷揚げ場所も、いま国分の本社ビルがあるあたりにあって、コメだの雑穀だのを倉庫に運び入れていました。年に1回は(日本橋の西にかかっている)西河岸橋から店の人たち、番頭さん、職人さん、僕たち子供みんなで船に乗って、東京ディズニーランド(千葉県浦安市)あたりまで潮干狩りに出かけていました。今でいう慰安旅行だね」
一晩で高速道路が乗っかった
――日本橋の上に高速道路がかかった時のことは覚えていますか。
「まず橋桁ができて、左右からだんだん高架が延びてきて、最後は一晩で日本橋の上に乗っかった。クレーンでね。びっくりしたよ。(翌年の)東京五輪までに完成させなきゃいけないというんで、とにかく急いでいたんだろう。で、五輪が終わって落ち着いて見てみたら、『これは、ひどい』と」
――建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか。
「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ」