薬物、酒、ギャンブル… 脳科学で克服する「依存症」
薬物依存症を電磁波で治療するお医者さんがいるんだって――母親にそんな話を聞かされても、パトリック・ペロッティは鼻で笑うだけだった。イタリアのジェノバに住む38歳のペロッティは、17歳のときにコカインに手を染めた。しだいに常用するようになり、ついにはコカイン欲しさに生活のすべてを犠牲した。恋をして息子が生まれ、レストランを開店したが、依存症のせいで家庭生活も商売も破綻した。
母親に説得され、ペロッティがその医師に電話すると、治療の内容を説明してくれた。自分は座っているだけでいいという。医師のルイジ・ガリンベルティが頭の左側に装置を近づけて刺激を与えると、コカインに対する欲求が収まる――少なくとも理論的にはそうした効果が期待できるとのことだった。
精神科医のガリンベルティは、依存症の治療を30年間行ってきた。従来の治療の限界を痛感していた彼は、ここ数年で目覚ましく進んだ依存症の研究にヒントを得て、「経頭蓋磁気刺激法」(TMS)による治療を試みている。
磁気の刺激で治療
近年の研究で、依存症者の脳内では欲求、習慣の形成、快楽、学習、感情の制御、認知に関わる神経ネットワークとその働きが妨げられていることがわかってきた。脳がもつ驚くべき可塑性(柔軟に変化できる性質)があだとなり、依存症に陥ると神経回路が変わって、薬物やアルコールを最優先するようになってしまう。
「依存症は病的な形での学習ともいえます」と、米国立薬物乱用研究所(NIDA)の神経学者アントネッロ・ボンチは話す。
ボンチ率いるNIDAと米カリフォルニア大学サンフランシスコ校の合同研究チームは、コカインを求めるようになったラットのニューロン(神経細胞)の活動電位を測定し、行動の抑制に関わる領域が異常に不活発になっていることに気づいた。試しにこの領域のニューロンを活性化させてみると、コカインにほとんど興味を示さなくなったという。人間の脳の前頭前皮質にある行動抑制に関わる領域を刺激すれば、薬物を求める激しい衝動を抑えられるかもしれないと、ボンチらは論文に書いている。
この研究に興味をもったのが前出の医師ガリンベルティだ。TMSは脳内の電気回路に刺激を与える手法で、うつ病や片頭痛の治療に以前から使われてきた。この装置で繰り返し磁気刺激を与えれば、薬物で損傷を受けた神経ネットワークを活性化できるのではないかと、ガリンベルティは考えたのだ。
ガリンベルティは試験に協力してくれるコカイン依存症者を募り、16人に1カ月間TMSによる治療を実施した。比較のため、ほかの13人には不安や抑うつを和らげる薬の投与など従来の治療を施した。試験終了までに、TMSを受けた11人がコカインを断てたが、もう一方のグループで回復した患者は3人だけだった。
依存症とは何か
つい最近まで、脳のネットワークを修復して依存症を治すことなど想像もできなかったが、神経科学の進歩で今や依存症の概念は大きく変わりつつある。
依存症は道徳心の欠如が原因ではなく、病気である。何年も前から学界で示されてきたこの見解を、米公衆衛生局長官の報告書もようやく認めた。依存症の特徴は、生活破壊を招いてまで特定の行為を繰り返す強い衝動にあることだ。こうした見地に立って、今では多くの科学者が、依存症を引き起こすのはアルコールやたばこ、薬物だけではないという見解をもつようになった。
米国精神医学会が作成した「精神障害の診断と統計マニュアル」の最新版DSM-5では、行動嗜癖(しへき)の一つであるギャンブルが初めて障害に分類された。ジャンクフードや買い物、スマートフォンなど、現代人を取り巻くさまざまな誘惑も依存症を引き起こすと考える研究者もいる。これらもまた、激しい欲求を生む脳の回路「報酬系」に強い影響を及ぼすからだ。
科学者たちは長年、報酬系に注目して依存症の謎を解明しようとしてきた。米ペンシルベニア大学依存症研究センターの臨床神経科学者アナ・ローズ・チャイルドレスは、MRI(磁気共鳴画像法)で薬物依存症者の脳の血流を調べ、神経の活動を解析することを研究の中心に据えている。MRI画像を見れば、被験者が激しい欲求に駆られたときに活発に働く回路がはっきりとわかる。
報酬系は脳の原始的な回路で、ラットの脳でもあまり変わらない。その働きにより、人間は目や耳、鼻を駆使して、生存に必要なものの在りかを突き止めようとする。報酬系は本能と反射をつかさどる脳領域にあり、食べ物や繁殖相手をめぐる競争が死活問題だった時代には大いに役立ったが、欲望を満たす機会がいくらでもある現代では、私たちを陥れる危険なわなともなる。
(文 フラン・スミス、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2017年9月号の記事を再構成]
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