ソプラノ歌手・岡本知高さん 両親と見た景色が原点
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はソプラノ歌手の岡本知高さんだ。
――幼少時に重い病気にかかり、親元から離れて生活したそうですね。
「小学1年生の夏休み直前にペルテス病という脚の病気にかかっていることが分かりました。股関節への負担を減らすには専門の施設で治療を受けたほうがいいとの判断から、家から遠い高知市の養護学校に行くことに。後に楽しい毎日に変わるのですが、幼い私にとって両親との別れはあまりにもつらく、最初は泣いてばかりの日々でした」
――声楽家になるきっかけも闘病にあったのですか。
「養護学校は週末だけ親元に帰れるとはいえ、高知県宿毛市にある自宅までは100キロメートル以上離れていました。当時は高速道路もなく、片道3時間かけて父が迎えに来て、母が帰りに送る4年間でした。軽自動車で移動する道中、市民合唱団に所属していた母とは童謡を歌いっぱなし。母がアルト、私がソプラノという役割分担までありました」
――その頃に感性を磨いたのですね。
「同じ道でも車窓から見える景色は毎週少しずつ変わります。自然の美しさや四季の移り変わりに感動するようになりました。宿毛と高知のほぼ中間地点に柿の木があり、その姿は鮮明に記憶に残っています」
「東京の大学で声楽を学んでいるとき、田舎育ちを嘆いたことがあります。都会に生まれていればもっと小さい頃から様々な芸術に触れ、よい先生にも出会えたのにと。でも歌で人を感動させられる力を与えてくれたのはあの4年間だったのだと、後から気づきました。いまでも人前で秋の歌を披露するとき、心の中に広がるのは両親と見たあの景色。懐かしさがこみ上げてくる大切な思い出なので、演技などしなくても情感たっぷりに歌えるんです」
――上京後はお母さんとどのくらいの頻度で会っていますか。
「大学時代やフランス留学中は、お金が底をついたときしか実家に連絡しない親不孝息子でした。今でも両親に会うのは年に1~2回ほどですが、5年ほど前に無料対話アプリ『LINE』の使い方を母に教えたことで頻繁に連絡し合うようになりました。操作に慣れない母からはすぐに返事が来るわけではありませんが、格段に便利になりましたね」
「上京して分かったのは自分のルーツである宿毛について、両親に連れて行かれた範囲しか知らないということです。自分にとってかけがえのない場所なのに、実は知らないことばかり。LINEは写真なども簡単に送れるため、ふるさとと自分をつなぐ手段になっています。せっかくいい道具があるのだから、母には私とのコミュニケーションを兼ねてもっともっとふるさとのことを教えてほしいですね」
[日本経済新聞夕刊2017年8月22日付]
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