幸福は断念した、でも不幸は嫌だ 今も送り続ける手紙
立川吉笑
毎週日曜更新、談笑一門でのまくら投げ。今週のお題は「手紙」ということで、今週も次の師匠まで無事にまくらを届けたい。
小学生のころ、「不幸の手紙」を受け取ったことがある。
ある日、登校すると下駄箱に一通の手紙が入っていた。初めてもらうラブレターかなと思いドキドキしながら開封すると、そこにはおどろおどろしい文体で、
「この手紙を読んだ者は決まった方法で他の人にまわさなければ災いに見舞われる」
というようなことが書かれていた。
絶対うそと分かりながらも、やっぱり良い気持ちはしないもので、友だちに申し訳ないと思いつつ、指示されるがまませっせと不幸の手紙を書くことになった。
同じころ、「幸せの手紙」も受け取った。
不幸の手紙を受け取った直後だったから、下駄箱に入っているその手紙を見なかったことにして捨てようと思ったけれど、僕も不幸の手紙を量産しては友だちの下駄箱に入れ続けていたところだったから、自分が読まないのは卑怯だと思い仕方なく開けて読むと、そこには「この手紙を読んだ者は決まった方法で他の人に回したら幸せが訪れる」と書かれていた。
必死で災いから逃れようとしていたころだったから、突如やってきた幸せな報(しら)せに胸の踊る思いがした。
その日から、不幸の手紙を書いては、それ以上に幸せの手紙を書く生活が始まった。だれかを不幸にする手紙を書く罪悪感を幸せの手紙を書くことで中和しようとしていたのかもしれない。
学校中で幸せの手紙と不幸の手紙が流行したから、下駄箱の前には収まりきらなかった手紙がわんさかあふれることになった。
それにしても、うちの小学校で流行(はや)った不幸の手紙は条件が厳しすぎた。何しろ、
「この手紙を読んだ者は9125日以内に27380人に同じ手紙を出せ」
と指定されていたのだ。普通は「3日以内に10人に」とかだと思うけど、うちの小学校はマンモス校だったからか、最初に書いたやつのどんぶり勘定が過ぎたのか、えげつないノルマを要求する不幸の手紙が出回っていた。日に3通ずつ送っても、25年かかる計算だ。
10歳のときから不幸の手紙をせっせと書き続け、32歳になった昨年、ようやく僕は最初に受け取った不幸の手紙のノルマを達成し、災いから逃れることに成功した。
しかしながら、僕が受け取った不幸の手紙は延べ9328通になるから、この先9327回の締め切りが待ち受けている。ざっくり計算すると、38歳から39歳になる年には、およそ3日に1回のペースで締め切りがやってくる。ちゃんとノルマを達成して災いをやり過ごせるのか、心配でしかない。
そして、うちの小学校ではやった幸せの手紙の条件も厳しすぎた。何しろ、
「この手紙を読んだ者は42秒以内に5人に同じ手紙を出せ」
と指定されていたのだ。スラスラ書けるように草書を学び、ノルマに挑んだけど、ついぞ達成することはできなかった。そのとき僕は、この世界において幸せになることの難しさを学んだ。
などと書いている今も僕はせっせと不幸の手紙を書いているし、それと同じくらい不幸の手紙が届いてもいる。幸せになるという目標はとうの昔に捨て去ったけど、不幸せにならないという目標はまだ、あきらめてはいない。
これからも僕は不幸せにならないよう、ひたすら不幸の手紙を書いては送り、近ごろ増えてきた不幸のメールもコピペしては転送し、不幸の伝書鳩を飛ばし、不幸の矢文を射るのだ。
そんな人生を送るのだ。
(次回8月27日は立川談笑さんの予定です)
本名、人羅真樹(ひとら・まさき)。1984年6月27日生まれ、京都市出身。180cm76kg。京都教育大学教育学部数学科教育専攻中退。2010年11月、立川談笑に入門。12年04月、二ツ目に昇進。出囃子は東京節(パイのパイのパイ)。立川談笑一門会やユーロライブ(東京・渋谷)での落語会のほか、『デザインあ』(NHKEテレ)のコーナー「たぬき師匠」でレギュラーを務めたり、水道橋博士のメルマ旬報で「立川吉笑の『現在落語論』」を連載したり、多彩な才能を発揮する。
ワークスタイルや暮らし・家計管理に役立つノウハウなどをまとめています。
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