Men's Fashion

「遊び」こそ王道! これがお洒落「マセがき」の結論だ

リーダーが語る 仕事の装い

演出家 テリー伊藤氏(下)

2017.9.11

お洒落(しゃれ)に早熟だったテリー伊藤さんは幼少期から、戦後に海の向こうから押し寄せてきた欧米のファッションカルチャーに憧れを抱いた。手に入らないなら、自分で作ってしまえ――。野球仲間とロゴ入りの野球帽を作ったり、ジーンズにパッチワークをしたり。さまざな工夫を通じて独自のファッション観がはぐくまれていった。その遊び心はいまなお健在だ。

前編「装いはトキメキ ビシッとした男なんて信用できない」もあわせてお読みください。




――1949年生まれのテリーさんは団塊の世代。ジーンズやアイビールックなどファッションカルチャーの洗礼を受けてきました。

「僕らの世代はアイビーファッションがはやり、ブリティッシュ好きでもある。今でも僕は色ではエンジとか黄色とかグリーンとか、芝生に映える、カレッジっぽい配色が好みですよ」

「団塊世代がファッションの最先端を体験してきたのは確かです。しかも、貧しさとの両方を知っているのはよかったと思います。日本という国自体が貧しかったところに、急に、ぱーん、と新しい文化がやってきたんだもの。ファッションも音楽も車もテレビも」

「ただね、若いころは当たり前だけどお金がない。僕も皆と同じように、洋服屋のウインドーを指をくわえて見ているだけ。洋服への憧れが増すばかりでした」

――そのころ、強烈に欲しかったものは。

「ピンクのスニーカーに憧れていました。向こうの雑誌に出ていたのだけど、日本には一足もなかったんだもの。スニーカーは黒と白だけ。それで僕は、当時大流行していた白元の染料で、セーターを染めるみたいに白いキャンバス地のスニーカーをぐつぐつ煮て、ピンクに染めました」

「僕は子供のころから洋服にマセていたんです。11歳のときには築地小学校(現在の中央区立京橋築地小学校)の仲間と、築地のTとスクールのSを合わせたTSというロゴを作って、近くのスポーツショップに、これで野球帽を作ってくださいと頼んだ。その後(1990年前後)渋カジのチーマーの間でチーム名入りのスタジャンが流行しましたが、僕たちがその走り(笑)」

「ほかにも高校生のころには氷屋ののれんをもらってTシャツに張ったり、古いこいのぼりのウロコをジーンズのポケットのところにパッチワークしたり、ファッションでもばかばかしい『遊び』をたくさんやりました」