ヒト受精卵の遺伝子変異を修復 米国初の成功に批判も
あなたの赤ちゃんが生まれる前に、致死的な遺伝子の変異を除去できたらどうだろう? 命を救うことが期待されると同時に反発も予想されるこの技術の実現に向けて、科学者たちは大きな一歩を踏み出した。
このほど、米国の研究チームが初めてヒト受精卵の遺伝子編集を行った。2017年8月2日に科学誌「ネイチャー」に発表された論文によると、研究チームは「CRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)」という「遺伝子のはさみ」を使って、58個中42個の受精卵から、肥大型心筋症という遺伝性の心臓病の原因となる遺伝子変異を除去することに成功した。
CRISPRという言葉を、どこかで聞いたことがあるかもしれない。CRISPRは、その発明以来、遺伝子編集の倫理をめぐる激しい論争の中心になっている技術である。(参考記事:「ジカ熱やエイズ克服へ ゲノム編集はここまで来た」)
技術を探求する科学者たちは、CRISPRは生物医学を大きく前進させる技術であり、将来、子孫に遺伝病を伝えないという選択肢を人々に与えるものだと言う。不妊治療の際には、望ましくない遺伝子変異がある受精卵を廃棄することがあるが、CRISPRは、こうした理由から廃棄される受精卵の数を減らす技術だと期待されている。
一方で、たとえこの技術が安全で有効であったとしても、倫理的ではないという批判もある。
米ボストン大学公衆衛生大学院衛生法・倫理・人権センターのジョージ・アナス所長は、「科学者たちはコントロール不能状態にあります」と言う。彼は、いかなる理由があっても科学者はヒト受精卵のゲノム編集を行うべきではないと考えている。「彼らは自然をコントロールしたがっていますが、自分自身をコントロールすることもできないのです」(参考記事:「ゲノム編集、サイボーグ… 科学で「進化」する人類」)
精子と一緒に注入
米国疾病予防管理センター(CDC)によると、肥大型心筋症は500人に1人程度が発症し、心筋が肥大して、心臓が突然止まるおそれがある。
今回の実験で、米オレゴン健康科学大学(OHSU)胚細胞・遺伝子治療センターのシュークラト・ミタリポフ主任研究員らは、肥大型心筋症の主な原因となっている遺伝子変異を標的とした。
彼らはまず、変異のある男性ドナーの精子と変異のない女性ドナーの卵子から58個のヒト受精卵を作成した。次に、遺伝子編集ツールCRISPRを使って遺伝子から病気の原因となる変異を切り取った。CRISPRでは、Cas-9という酵素をDNA分子の標的部位までガイドし、そこで切断する。うまくいけば、DNAが自分自身を修復し、変異が消える。
この手法は常に成功するわけではない。これまでの研究では、変異を除去できた細胞とできなかった細胞の両方が混在するモザイク状の受精卵もできてしまった。
そこで彼らは新しい手法を開発した。従来のように受精後に遺伝子を編集するのではなく、CRISPRと精子を同時に卵子に注入したところ、モザイクにはならなかった。
実験では約70%の受精卵で遺伝子変異を修復することができ、編集されたDNAのほかの部位では、望ましくない変化は見られなかった。
研究チームは受精卵を胚盤胞(はいばんほう)の段階(不妊治療では通常、この段階の受精卵を母体に移植する)まで成長させたが、異常は見られなかったという。その後、受精卵は廃棄された。
民間資金による研究、海外での活動も視野
論文の共著者でOHSU産婦人科非常勤講師のパウラ・アマート氏は、米国時間の8月1日に行われた記者説明会で、「もちろん、臨床試験に進む前に、さらなる研究と倫理面の議論が必要です」と語った。
米国科学アカデミーと米国医学アカデミーは、2017年、科学者と倫理学者からなる国際委員会に対して、ヒトでのゲノム編集の長所と短所を検討するように要請した。
委員会の報告書は、ヒトの生殖細胞系(次の世代に遺伝子を受け渡す役割を担う細胞)については、疾患や障害の治療や予防を目的とする場合を除き、遺伝子編集を行うべきではないとし、そのような実験を始める前に、もっとしっかり議論しなければならないとしている。
米国では現在、ヒトの受精卵や胚の「破壊」を伴う研究に公的資金を用いることは禁止されている。
今回の研究は、研究機関や民間の資金を用いて進められたが、研究チームは、米国内でスムーズに研究を進めることができなければ、外国で研究を行うことを考えている。
米シンシナティ大学心臓・肺・血管研究所の心臓部門長サクシベル・サダヤッパン氏は、遺伝子編集によりDNAから遺伝病を除去できるようになるのは遠い未来の話のように思われるかもしれないが、こうした研究は注意深く見守っていかなければならないと言う。
氏は今回の研究には関与していないが、「ワクワクするような研究で、未来はここにあると思います」と言う。
ミタリポフ氏の実験の規模は小さく、不十分なものだ。けれどもサダヤッパン氏は、この研究は行う価値があるとして支持している。「もちろん、実現できるかどうかの調査研究も難題です」と彼は言う。「けれども科学は、こうやって進んでいくしかないのです」
肥大型心筋症を研究しているサダヤッパン氏は、この技術のリスクは大きいが、成功したときの恩恵も大きいと考えている。「例えば、両親から変異を受け継いだ人が子どもを欲しいと思ったときには、この技術に頼るしか選択肢はありません」
もう一度規制について話し合う時期
体外受精の際に、着床前診断という手法で受精卵の遺伝子の異常を調べることは、現時点でも可能だ。研究チームは、将来的には自分たちのCRISPR技術を、嚢胞性線維症(のうほうせいせんいしょう)などの疾患の原因となる遺伝子変異に適用できるようになるだろうと考えている。
研究チームの論文には、今後、自分たちの手法を用いて「突然変異のある受精卵を救い、母体に移植できる受精卵の数を増やして、妊娠率の向上につなげる」ことが可能になるかもしれないと書かれている。(参考記事:「人工子宮でヒツジの赤ちゃんが発育 ヒトへの応用は?」)
この点について、「話になりません」と米ボストン大学のアナス所長は断定する。「現時点では、赤ちゃんの変異遺伝子をなくすには、もとから変異のない受精卵を使うしか方法がないことを、彼ら自身も認めています」
一方、ミタリポフ氏は、変異遺伝子を受け継ぐ確率が50%の場合、「受精卵の半数を破棄することは道徳的に悪いことです」と反論する。「私たちは、先を見越して行動する必要があります」
いずれにせよ、米国内でのCRISPRをどのように規制するか、もう一度話し合う時期が来ている、とアナス氏は言う。「規制当局は怖れをなしているのではないでしょうか」
ミタリポフ氏は、そうした議論は、自分たちの技術の可能性を世に知らしめる好機だと考えている。サルのクローン胚やヒトのクローン胚からES細胞(胚性幹細胞)を作成したことでも知られる彼は、公の議論に火をつける方法を十分に心得ている。彼は言う。
「私たちは限界を超えてゆくのです」
(文 Erin Blakemore、訳 三枝小夜子、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック ニュース 2017年8月4日付]
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