コシノジュンコさん 生涯みんなの「おかあちゃん」
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回はファッションデザイナーのコシノジュンコさんだ。
――生まれたのは太平洋戦争の直前ですね。
「姉と私は戦前に生まれ、妹が母のおなかにいる時に父は戦死しました。私が2歳半の時なので父親の思い出はありません。母は女手一つで私たちを育ててくれました。大阪の岸和田の実家には地下に防空壕(ごう)があって、空襲警報が鳴るとみんなで入ってたまった水をくみ上げる。狭いし真っ暗なのになぜか楽しい思い出なんです」
――お母さんは苦労なさったんですね。
「そうですね。でも実家は洋裁店で生地と食糧を交換できたので食べ物には困りませんでした。母が中心になって裁断をして、10人ぐらいの従業員と昼ご飯も、寝るのも一緒でした。母は4姉妹の長女なんです。3人の妹を親代わりで嫁に出して、私たち3姉妹を育てた。おかあちゃんには、男の人に頼るという感覚がないんです」
――「おかあちゃん」と呼んでいた?
「ええ。これが私たち娘だけではないんです。本名は小篠綾子(こしのあやこ)ですが、『綾子さん』と呼ぶ人はほとんどいなくて、友人や知人もみな『おかあちゃんおる?』とか言うんです。2006年に92歳で亡くなるまでずっとおかあちゃん。いつも誰かに頼られている。本人も気に入っていて『私がみんなの面倒見るわ』と、誰にでもごちそうしていました」
「うちの洋裁店が府立岸和田高校の制服の指定店になり、おかあちゃんは『絶対に入ってもらわんとあかん』と厳しく言われました。中学3年生の時は、家に帰ると家庭教師が待ち構えていて嫌になりました。でも、それがプロとしてのプライドなんですね。今ではよくわかります」
――NHKの朝の連続ドラマ「カーネーション」(11年)でお母さんの生涯が描かれましたが、生前「出たい」と言っていたそうですね。
「そう。NHKの集金の人に『私も朝ドラに出られへんか』と頼んでいました。まわりからは『そんなアホな』と言われてましたが本人は本気。『向こう岸、見てるだけでは渡れない』とよく口にしていました。行動に移さないと何もかなわない。人間て、なりたいものや憧れが死んでから実現することもあるんだなあ、とつくづく思います」
――お母さんはモテたようですね。
「私たち姉妹があきれるほど恋をしていましたね。よく働き、よく食べて、よく遊ぶ。『しんどい』と絶対に言わない人でした。私とは気性が似ていた。ここ一番という時は必ず私の洋服を着てくれました。『そろそろ隠居したら』と言うと『あんたらの世話にはならない』とものすごく怒りました。そう怒られたのが今の私の年です。私も息子に『仕事やめてゆっくりしたら』と言われたら嫌ですね」
[日本経済新聞夕刊2017年8月1日付]
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