劇作家・永井愛さん 父が教えた「人間の悲喜劇」
著名人が両親から学んだことや思い出などを語る「それでも親子」。今回は劇作家の永井愛さんだ。
――1歳のときに両親が離婚。父親と父方の祖父母に育てられたそうですね。
「母は20歳のころ、14歳年上の父と結婚しましたが、夫の両親と同居するのが窮屈だったのか、私を連れて家を出ました。でも私は2歳になる直前、父に引き取られ、それからはずっと父の家で暮らしました」
「17歳のときに母から突然連絡があり、会いに行きました。手作りのとんかつをごちそうしてくれたのですが、ほぼ初対面の女性にいきなり母親のように振る舞われて違和感がありました。どんな映画が好きかと聞かれ、『戦艦ポチョムキン』と『旅情』と答えると、『2つとも好きというのは矛盾』と言われ、論争になりました。母をすっかり嫌いになって、会わずにいるうちに亡くなってしまったのが心残りです」
――父親は画家の永井潔さん。どんな家庭でしたか。
「画家や作家ら多くの芸術家仲間がいつも遊びにきていました。昔は近所の人との交流が密で、家のカギを開けたままだったので、毎日いろいろな人が立ち寄って話し込んでいきました」
「祖母は近所の人の話をよくするし、私も学校で起きた出来事をつぶさに話すなど、祖父以外は皆が本当によくしゃべる家でした。父親はよく笑う人なのですが、どんな話にも笑うわけではない。私が、普遍的な人間の弱さとか滑稽さにうまく触れながら話せたときに父は笑いました」
「父はリアリズムの画家といわれますが、小説の挿絵で人間の悲喜劇を絶妙に描いた作品が多く、私は大きな影響を受けていたのだなと感じます」
――永井さんの演劇や生き方についてお父さんは、どう見ていたのでしょう。
「学校を出てから就職もせず、仲間と芝居をしていましたが、26歳のときに大石静(現在は脚本家)と出会いました。劇団の二兎社を旗揚げすると、祖母は喜び、孫の芝居のチケットを周りの人に売りつけていました。父は、すべての作品を見にきてくれましたが、私に直接感想は言わず、祖母に『甘いな』とか、つぶやくだけです。なかなかほめてくれず、1996年に紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞したときも『世も末だ』と言われました。でも2002年に私を描いた水彩画の仕上げに、『a playwright(劇作家)』と書き入れたのです。ようやく認めてくれたのかとうれしかった」
「父は92歳で亡くなりましたが、生誕101年を記念して、東京・練馬のアトリエを『永井潔アトリエ館』として今年4月にオープンしました。土曜のみの開館です。父は芸術論なども多数著しています。アトリエ館の館長を務めながら、父の業績について改めて紹介していきたいと思っています」
[日本経済新聞夕刊2017年7月11日付]
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