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私の履歴書復刻版

「肚の見せ合い」6カ月 大型合併でIHI誕生 第4代経団連会長 土光敏夫(22)

2017/7/27

清貧ぶりと無私の姿勢で「メザシの土光さん」と慕われ、1980年代の行政改革の先頭に立った土光敏夫氏(どこう・としお、1896-1988)の「私の履歴書復刻版」。1960年7月1日、石川島重工業と播磨造船所の合併が発表されます。陸上部門に強い石川島重工と船舶に強い播磨造船の合併は当然の帰結と土光さんは語りました。

■石川島・播磨合併――“陸と海の結婚”円滑に 人事に工夫、マンネリも一掃

昭和35年(1960年)――この年は、日本国中が日米安保改定をめぐって、揺れに揺れていた。デモ隊は連日のように国会に押しかけ、6月15日、ついには犠牲者まで出した。その余燼(よじん)の残っている7月1日、私は、東京会館で重大な記者発表を行った。

ご存じの通り、石川島重工業と播磨造船所との合併発表である。発表は午後2時であったが、その午前中、私と六岡周三播磨造船所社長との間に、合併趣意書と契約書をとり交わしていた。当時の両社の規模は、石川島が資本金52億円、従業員約9000人、年間生産能力約400億円、播磨造船所が資本金40億円、従業員約6000人、年間生産能力約200億円であった。

このような大型企業の合併が、全く秘密裏に、しかも短期間でスムーズに行われたことに対して、マスコミをはじめ、世間はあっと驚いたようだが、私に言わせれば、両社の事業の態様や発展の経過をみれば、当然の帰結であると言える。

まず、石川島の企業を考えれば、当時、石川島の造船設備は、三菱や日立が8万トン、5万トン級のものを有していたのに比べ、わずか3万トン級に限られていた。私は、昭和20年代の末ごろから、エネルギーはゆくゆくは石炭から石油に転換し、タンカーの需要が高まると判断していた。そこでタンカーの建造に乗り出したが、これもゆくゆくは10万トン以上の大型船必至とみていた。

ところが、石川島は隅田川河口にあり、立地条件からも大型タンカー建造の設備は持てない。いきおい、ほかに適地を求めざるを得ない状態にあった。

一方、播磨造船の場合は、造船メーカーとしては第3位にあったが、33年以降、造船業界は長期不況に陥り、33年から35年の2年間に、受注残高は3分の2、売上高は2分の1に激減するというありさまであった。造船比率90%以上という播磨にとって、この不況はとくにこたえ、別途陸上部門の進出をはかっていた。

石川島の陸上部門の比率は、80%である。

つまり、両社は、あい補う部分を模索中であったわけである。そこへ来て、石川島と播磨は、以前から石川島がタービン機関を、播磨がディーゼル機関を互いに供給し合う友好関係にあった。

そんな関係で、ある日、六岡社長と会食、話のついでに偶然、お互いの悩みが出た。六岡社長の陸上部門進出の意思を知った私は、ひそかに、播磨の実態を半年がかりで調査させた。

「うむ、いざなみ、いざなぎの故事ではないが、お互いに、成り成りて成り合わざる処と、成り成りて成り余れる処とがあるわい。これならうまくゆく」と判断した。つまり“陸”と“海”との結婚である。

私が、正式に六岡社長の肚(はら)を打診したのは、赤坂のある料理屋である。私は極力、夜のお付き合いはお断りすることにしているが、このときばかりは別。1時間前に赴いて、玄関で六岡社長を待った。

六岡社長は、東大船舶工学科の出身だが、小唄の名手という都会人で、さばけた人であった。同じ技術屋出だから、合理主義尊重の気持ちは共通している。合併による両社のメリットをすぐに理解し、話は進んだ。

しかし、この合併話は、秘密厳守とし、“事”は慎重に運ばれた。まず、両社から各3人の合併準備委員が選ばれた。石川島側は、経理担当常務、経理部長、調査室長、播磨側は財務担当専務、財務部長、調査課長である。

連絡事務室は、ちょうど両社の中間のあるビルの一室、毎週2、3回、1回半日のペースで会議は続けられた。その中身は、それぞれの欠点、弱点を洗いざらいさらけ出すことであった。例えば、公表している決算諸表ではわからない含み利益や含み損失まですっかり見せ合った。万一、この合併がうまくゆかずご破算にでもなれば、それ以後、お互いに競争ができないといういわば背水の陣であった。

6人の委員たちは、この秘密会議に参加するため、上司、同僚、部下、親兄弟にまで、心ならず苦しいウソをつかねばならない状態だったようだ。

この“肚の見せ合い”は約6カ月続き、6月下旬、正式決定した。しかし、部課長に知らせたのは、発表当日(7月1日)の午前9時、それから全従業員に伝達し、記者会見した。

合併の比率は、石川島の株式5に対して播磨の3、資本金を102億円とした。社名については、はじめ、「石川島播磨重工業」という戒名のような長い名前ではどうも、という意見もあったが、略称「IHI」として、この方をPRしようということで落ち着いた。

先に当然の帰結としての合併とはいったものの、やはり、人間と人間の集まりである。社風や、給与体系、昇進制度の違いをどうするか。それが問題であった。そこで、役員構成を両社それぞれ9人とし、人事面での平等感を前面に押し出した。次に、会社組織を「産業機械」「原動機・化工機」「船舶」「航空エンジン」「汎用機」の5部門に分割、完全事業部制に移行した。こうしておいて、人事配置は、まず両社の従業員をいったん本社にプールし、そのあとほとんど無差別に五事業部に再配分した。この結果、新しい職場では、上役も同僚も、いったい石川島なのか、播磨なのか、わからない配置となった。

懸念していた「人の融和」の問題は、案ずるより産むがやすしであった。このような配分によって、かえって組織のマンネリズムが一掃され、逆に清新の空気がみなぎり、やがて、石川島播磨重工業はフル稼働に入っていくのである。

この連載は、昭和57年(1982年)1月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」および「私の履歴書 経済人 第20巻」(日本経済新聞出版社)の「土光敏夫」の章を再掲したものです。毎週月曜日と木曜日に更新します。2012年、日経Bizアカデミーで公開した記事を再構成しました。文中には今日では不適切とされる表現や行為の記述などがありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載しました。

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