2017/6/25

東京ふしぎ探検隊

「東武鉄道百年史」によると、1903(明治36)年に逓信大臣に提出した「東上鉄道株式会社」仮免許申請書には、「東京府北豊島郡巣鴨町字氷川」を起点とする、と書いてあった。今はない地名だ。

東上線、新潟延伸構想も

東上鉄道のターミナル、氷川駅の場所を示す地図(国立公文書館所蔵)

「氷川」とはどこか。国立公文書館を訪れ、当時の文書を調べてみた。鉄道院の文書を一つ一つ見ていくと、参考資料として付けられた地図の中に「氷川駅」の文字を見つけた。場所は大塚駅と巣鴨駅、護国寺に囲まれたあたり。今の文京区千石付近だ。明治時代の地図を見ると、「氷川神社」(現在は「簸川神社」に変更)の記載もあった。駅名の由来はこの神社にありそうだ。

鉄道省が作成した「東上鉄道線路予測説明書」は、氷川周辺についてこう記す。

「旅客ノ往来ハ市内ノ繁栄ニ異ナラズシテ、商工ノ旺盛、頻繁ニ至テハ亦贅言ヲ要セザルナリ」(市内に負けず劣らずにぎやかで、商業や工業が盛んなことはいうまでもない)

ターミナルにと期待された氷川だったが、1911(明治44)年には早くも幻となる。東上鉄道の起点が「東京市小石川区小石川大塚辻町」に変更されたのだ。現在、丸ノ内線新大塚駅があるあたりだ。

変更の理由は市電。氷川を起点とすると、東京市電の線路を越えなければならない。「人家が密集している場所に堤を設け、電車線路と交差させるのは、技術上からも困難」と「百年史」は指摘する。

だが起点は再び変更となる。池袋の登場だ。「百年史」はその理由として、この間の池袋の急速な発展を挙げる。立教大学や豊島師範学校(現・東京学芸大学)などが次々と池袋に開校し、住民も増加。西口方面から地域に変貌の兆しが表れた、と指摘する。

曲折を経て1914年、東上鉄道池袋駅はようやく開業にこぎ着ける。その6年後には東武鉄道と合併し、池袋駅は東武東上線の駅となった。

東上鉄道は当初、新潟への延伸を目指していた。鉄道省の資料にその構想が詳細に語られている(国立公文書館所蔵)

ところで通常は起点であることを示すゼロキロポストは、下板橋駅近くの留置線内に設置されている。池袋~下板橋間は軽便鉄道法、下板橋~川越町間は私設鉄道法という異なる法律の下で敷設されたためだ。豊島区内なのに「下板橋」という駅名なのは、北豊島郡板橋町下板橋に隣接していたためといわれている。留置線の施設内には記念碑も建っていた。

ちなみに東上鉄道は当初、壮大な構想を抱いていた。上州までにとどまらず、新潟までの延伸を考えていたのだ。

鉄道省の文書にはこんな記述があった(抄訳)。

「東京と、本邦5港の一つである新潟との距離を短縮し、平時は旅客や貨物の往来を便利にして、戦時は陸軍動員の輸送を自由にする」

だが、この構想は実現しなかった。それどころか、最初に目指した群馬までの延伸も幻に終わった。同じころ、八王子と高崎を結ぶ八高線の計画が持ち上がり、東上線とルートが重複したからだ。東上線は結局、埼玉県の寄居までにとどまった。

武蔵野鉄道も池袋に起点を変更

西武鉄道の前身、武蔵野鉄道も当初は池袋起点ではなかった。

1911(明治44)年、武蔵野軽便鉄道(後の武蔵野鉄道)は巣鴨から飯能までの鉄道免許を申請する。このときは山手線と接続する巣鴨駅がターミナルになる予定だった。

なぜ巣鴨なのか。西武鉄道によると「中山道の門前町で、江戸時代から続く東京北郊随一の繁華街だった」ことが理由という。

だが、計画はすんなりとは進まなかった。翌年には池袋への起点変更を申請する。変えた理由は、はっきりとは分からなかったが、東京府が変更を求めたともいわれている。池袋で山手線、東上鉄道、武蔵野鉄道を接続させる意図があったのか。

ところで、西武鉄道には「東」がつく駅名が多い。東長崎、東久留米、東飯能、東伏見、東村山、東大和市……。東京西部を走る路線なのになぜなのか。

それぞれの駅で事情が異なるが、多くは別の駅と混同しないため、という理由だ。代表格が東長崎や東久留米。それぞれ長崎村、久留米川という地元の名前からきているが、九州にも同名の駅があるため、「東」を付けて区別したという。

次のページ
山手線も池袋を通らない予定だった