井上道義の会心作 ショスタコーヴィチの神髄に迫る
クラシックCD・今月の3点
井上道義指揮サンクトペテルブルク交響楽団、広島交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、名古屋フィルハーモニー交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、東京オペラシンガーズ、栗友会、アンナ・シャファジンスカヤ(ソプラノ)、セルゲイ・アレクサーシキン(バス)、千葉県少年少女オーケストラ(特別参加)
子どものころ、音楽室に貼ってあった音楽史の年表の終わりくらいに「ソ連の作曲家、ショスタコーヴィチ」の肖像が載っていた。古い眼鏡をかけ、ニコリともしない表情は正直、怖かった。
指揮者の井上道義は2007年11~12月にショスタコーヴィチの交響曲の多くが日本初演された「聖地」、東京の日比谷公会堂(1929年完成)に複数のオーケストラを招き、全15曲を一気に指揮した(日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト2007)。実況録音を収めたCDボックスのアートワークも井上自身が手がけたが、ショスタコーヴィチの顔写真の大半はにこやか、時には「おちゃめ」の域に達している。「D・ショスタコーヴィチは僕自身だ!」と宣言するほど傾倒する井上は、社会主義体制とのせめぎ合いの中に生き、「苦虫をかみつぶした」側面ばかりが強調されがちだった作曲家像の修正を、写真の選択ひとつからも迫る。
「9番と15番の演奏に自分でどうしても合点がいかなかった」と振り返る井上は16年2月13日、公会堂の文化遺産としての保存が確定し、長期補修に入る前最後の演奏会で再び、この2曲を新日本フィルと演奏して全集の完成に至った。07年と16年の間は9年でしかないが、井上は14年4月から半年間、咽頭がんのために活動を休止した。若いころバレエを本格的に学び、派手なアクションと鋭い楽譜の読みが一体化した指揮ぶりは、早くから高い評価を得ていた。闘病から復帰した後は独自の死生観も漂い、諧謔(かいぎゃく)と絶望、楽観が万華鏡のように織り込まれ、一筋縄ではいかないショスタコーヴィチのスコアから、恐ろしく深い音楽を紡ぎ出す。日比谷の乾いた響きを逆手にとり、あらゆる音と旋律を浮かび上がらせたレコーディングエンジニア、桜井卓の手腕も光っている。
どのオーケストラも井上の意気に、全力投球で応える。本場ロシアの名門の安定感は当然だが、広島と名古屋の楽団の高い力量やゲストで招かれた千葉県の子どもたちの熱演にも、驚きが用意されている。人間と人間の営みが出合い、重なり、共感したり反発したりして、新しい音楽の時間が生まれる。井上は06年に還暦(60歳)を迎えたとき、「生まれ変わったのだから、もう一度暴れてやる!」と叫んでいたが、その後の10年を振り返った今は、こんな言葉を漏らす……。
「生まれ変わるのは自分ではなく、周囲の光景や人々だった。新しい世代や建物に出くわし『昔の方が良かった』と嘆くよりも、出合いを喜び、自身も豊かにできる人生の始まりが還暦だったんだ」
(オクタヴィア・レコード)
アンドリス・ネルソンス指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
ラトビアの首都リガに生まれ、ラトビア国立歌劇場管弦楽団の首席トランペット奏者から指揮に転じ十数年。まだ38歳のネルソンスはここ数年、「大化け」としか言いようのない躍進ぶりをみせている。2014年に米ボストン交響楽団の音楽監督に就き、「ドイツ・グラモフォン」(DG)レーベルで着手したショスタコーヴィチの交響曲の録音は2年連続でグラミー賞を受けた。今秋からは1743年に発足したドイツの名門、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(GOL)の楽長(カペルマイスター)を兼ねる予定。DGはボストンとのショスタコーヴィチに続き、GOLとのブルックナー、ウィーン・フィルとのベートーヴェンの交響曲全曲録音を開始した。
ブルックナーの第1作は、昨年6月に本拠地のゲヴァントハウスでライブ録音された第3番。ワーグナーに献呈されたため、「ワーグナー交響曲」と呼ばれることもあるブルックナーの出世作だ。ライプツィヒはワーグナーの生地で、20歳までを過ごした。「タンホイザー」序曲との組み合わせは作品的にも関連があり、興味深い。
ネルソンスが新しいパートナーと造形するブルックナーの響きは明るく、運動神経の俊敏さでも際立つ。旧東ドイツ時代のどっしり重く、くすんだ響きのGOLを覚えている聴き手が一種の違和感を覚えたとしても不思議ではない。旧西ドイツとの統一後にブロムシュテット、シャイーと優れた楽長を得て、伝統の維持と楽員の世代交代・国際化をうまく達成した成果が今、はっきりと現れている。ネルソンスは新時代の「名器」の力量をフルに引き出し、存分に鳴らし、息の長いフレージングを保ちながら、非常に深々とした精神の営みへと音楽を掘り下げていく。10年に小澤征爾の代役としてウィーン・フィルのツアーに同行、日本デビューした当時の性急さ、力任せといった欠点は、完全に過去のものとなったようだ。今年11月、ボストン響との日本ツアーにも大きな期待が持てる。(ユニバーサル)
野勢善樹(フルート)、長谷川朋子(ハープ)、大野かおる(ヴィオラ)
この暑苦しい梅雨にショスタコーヴィチ、ブルックナーら、大編成の交響曲ばかり聴かされても困る……。そんな人にお勧めしたいのが、19世紀後半から20世紀前半のフランス音楽をフルートとハープで奏でた、かそけき響きのアルバムである。
フルートの野勢は過去40年、ハープの長谷川は30年にあまりにわたって日本とフランスで演奏活動を続けてきた。ともに、日本でも「フルートとハープのおしどり夫婦」として人気を集めた名手、クリスチャン・ラルデ(フルート)&マリー=クレール・ジャメ(ハープ)夫妻の薫陶を受け、フランス音楽の神髄を自身の体内に刻み込んできた。演奏を音だけで聴く限り、ただただ、フランスの音楽だけが持つ香りの美しさ、品性の確かさを的確に再現している。
ドビュッシーの「ビリティスの歌(6つの古代墓碑銘)」、フォーレの「夢のあとに」「無言歌」、フランセの「5つの小二重奏曲」、ドビュッシーの「月の光」「フルート、ヴィオラ、ハープのためのソナタ」の順に収録。ソナタにはヴィオラの大野が加わるが、それまでの二重奏に聴かれた緊密なアンサンブルは、最後まで一貫して保たれる。日本の中堅奏者の演奏水準の高さを実感するとともに、曲の素晴らしさをどこまでも安心して堪能できる仕上がりだ。(コジマ録音)
(コンテンツ編集部 池田卓夫)
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